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特集

Bobby Caldwell(2)

カテゴリ : ピープルツリー

掲載: 2005年09月15日 14:00

更新: 2005年09月15日 18:44

ソース: 『bounce』 268号(2005/8/25)

必然的なデビュー

 こうしてマイアミの地で一旗上げて、華々しく表舞台に立ったボビー・コールドウェル。でも彼の生まれはフロリダではなく、NYのマンハッタンだ。ショー・ビジネス関連の仕事に携わる両親のもと、51年8月15日に誕生。ちなみにウィンター・ファミリーやキャプテン・ビヨンドで活躍したドラマーは同名異人である。10歳の時に父親からギターをプレゼントされたのがきっかけで音楽に目覚め、子供の頃はフランク・シナトラに夢中。さらにビートルズをはじめとするポップソングへと興味は広がった。間もなくバンド活動をスタートすると、身近なパーティーなどでプレイしはじめ、数年後にはあらゆる楽器を手掛けるようになった。14歳の頃からは演劇の才能も発揮し、TVCMへの出演も経験している。しかし、中心はあくまで音楽。メンフィス、ジャクソンを経てLAへと移ったボビーは、カトマンドゥというバンドのメンバーとして初のレコーディング契約を得ている。でもこのバンドはほとんど目立った活動ができず、ボビーはかのリトル・リチャードに見い出されて全米クラブ・サーキット回りに駆り出された。この時のボビー、22歳。その後もしばらく下積みを続けるが、76年になると突然ソロ・デビューの話が舞い込み、PBRインターナショナルというマイナー・レーベルからシングル“The House Is Rockin'”を出すこととなる。この曲は本国USやUK、カナダ、南米のディスコなどでスマッシュ・ヒットするものの、本格的な活動には発展しなかった。ボビーは仕方なくLAを離れ、両親が移り住んでいたマイアミで父親の事業を手伝いながら、チャンスを窺うことになる。そして、母親の勧めで地元を拠点とするTKにデモテープを持ち込むと、それが認められ、晴れて契約成立。こうして彼のメジャー・デビューがお膳立てされたのだ。

 でも、いまにして思えば、ボビーのTK(正確には傘下のクラウズというレーベル)からのデビューは必然的だったのかも知れない。なぜなら、このTKこそが70年代に人気を博した〈マイアミ・ソウル〉の発信源であり、白人によるソウル・ミュージックを推進したレーベルだったのだから。そこではベティ・ライトやティミー・トーマス、ジョージ&グウェン・マクレーらが次々とR&Bヒットを飛ばし、ラティモアやリトル・ビーヴァーといった連中がアーティスト兼ミュージシャンとして活躍。とりわけボビーのすぐ先を走っていたのは、ディスコで大ブレイクした白黒混成グループ、KC・アンド・ザ・サンシャイン・バンドだった。当のボビーも、LA時代から同じマルチ・タレントであるスティーヴィー・ワンダーに心酔し、彼のサウンド、それこそ曲作りからヴォーカル・スタイルに至るまでを徹底的に研究。それがカリブ海の玄関口であるマイアミの地で、明るく陽気な風土色や、アフロ・キューバン、カリプソ、レゲエといった亜熱帯サウンドのインフルエンスを受け、なんともメロウでソウルフル、しかも仄かにトロピカルな〈ボビー・コールドウェル・ミュージック〉へと完成されていた。この手の音楽、後に〈AOR〉としてカテゴライズされることになった連中は、シーンの活性化がもっとも進んでいた西海岸から出てくるケースが多く、ボズ・スキャッグスやドゥービー・ブラザーズのアーバン化もそこで行なわれている。そのなかにあって、カリビアン・テイストを孕んだボビーの微熱感覚なサウンドは、ひときわ個性的でもあった。

▼ボビー・コールドウェルの編集盤

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