DUBSENSEMANIA(2)
PJ
PJとRAS TAKASHIの2人は、この取材の数日前までハワイを訪れていたという。TAKASHIの知り合いであるハワイのルーツ・レゲエ・バンド、ウクラ・ザ・モックとセッション・ライヴを行う一方、現地のラジオ番組に出演してこだま和文など日本のレゲエをかけたりしたそうで、PJは「スゲェおもしろかったのが、ラジオをやってる最中にリスナーからガンガン電話がかかってきてね、みんな気に入ってくれたみたい。ライヴも超イージーなセッションだったけど、向こうの人たちとの交流ができて楽しかったですね」と話す。ちょっと友人から呼ばれたのでハワイまで……最近では忙しくなってそんな動きもできなくなってきているようだが、それにしても、だ。なんともDSMらしいなぁと思ってしまう。
PJがDUBSENSEMANIA(以下DSM)に加入したのは2000年。それ以前の彼は、ソロ・シンガーとして数枚のアルバムを残し、日本レゲエ・シーンを牽引する存在だったわけだが(と書くのが憚られるほどの存在なのだ、若人よ)、それまでTAKASHIの打ち込みダブ・ユニットだったDSMは、レゲエのなんたるかが凝縮されたPJのドラムが加わることによってまったく別のバンドになったといっていい。
「もともとTAKASHIは地元の吉祥寺で知ってて、俺がソロの時からライヴを観にきてくれる仲だった。NYに行ってミュージシャンになって帰ってくるとは思ってなかったけどね。帰国後、オレが毎年やってるイヴェントに出してくれっていうから、〈ホントできんの?〉ぐらいの感じで出てもらったんだけど、すごく格好良かった。でも打ち込みでね、〈オレが叩いたほうが絶対格好良くなるぜ〉って思って入った」。
そして新生DSMはスタートした。
「自分たちで〈あそこの店でやらせてもらえるか訊いてみよう〉みたいな感じで話を持っていって……次第に〈次どこでやろうか〉ってイメージが膨らんでいって、曲も増えてきて。デモを録ろう、聴いてもらおうって思って、自分らでプロフィールやパッケージを作った。それをいろんなところで配ってね」。
まさに〈Do It Yourself〉。PJは「いままでいろんな人にお世話になりすぎてたなぁって思った(笑)」と話す。彼の加入から5年、新作『VERSATILITY』はDSMがどんどん自由になってきていることを印象づけるようなところがある。つまり、この7人で音を鳴らせばなにをやってもDSMになる、そんな自信が漲っているような感じなのだ。
「嬉しいね。2枚目でそう思ってもらうには早いかもってぐらい。ルーツ・レゲエ日本代表みたいな言われ方をするけど、そういう意識ではやってない。もちろんルーツ・レゲエから入って、他のレゲエとかロックとか聴くようになって……自分のなかでルーツ・レゲエは中心の柱であって、取っても取れないコブシみたいな感じ。そういう部分ではレゲエでありつつ、どんどんオリジナル……変に作るんじゃなくて、ハーモニーがあってダブ・インストがあって、そのなかでミックスしたり、いろんな幅のものができたり、それをまたミックスして……レゲエの枠を越えるのが目標だからね」。
ローティーンで音楽活動を始めたPJは、すでに20年を超えるキャリアを誇る。その間TAKASHIも話しているcafe 8で4年ほど働きながら、ごく自然な音楽活動のペースを掴み取ろうとしてきた。
「ソロのときすごく不満だったのは、ライヴがあまりできなかったこと。プロモーションが多くて、やっぱりペースがおかしくなってね、自分のなかのバイオリズムがあるから。なんのためにやってるんだろうなみたいな感じだった。自分のペースでできるときこそやりたいし、そのときこそパワーを発揮するチャンスだから」。
そう話すPJの顔は、なんとも爽やかな自信に満ち溢れていた。(大石 始)
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