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特集

Bob Marley(2)

カテゴリ : ピープルツリー

掲載: 2005年08月18日 14:00

更新: 2005年08月18日 16:01

ソース: 『bounce』 267号(2005/7/25)

文/藤田 正

世界に燃え広がったレゲエ

 このようにして、60年代のボブ・マーリーらは若いジャマイカンにとっての大きな存在になっていったが、ではそれで大金を掴んだかというと、そうではなかった。ボブは妻をジャマイカに置いて、母を頼ってアメリカの自動車工場へ働きに出かけたこともあった。この当時の苦労の様子は、今年邦訳が出たリタ・マーリーの自伝「ボブ・マーリーとともに」に詳しい。

 才能に溢れ、優れた歌を作っているのに、なかなか上手くいかないウェイラーズ……そんな彼らの精神的な支えが〈ラスタファリアニズム〉だった。過激で怪しい黒人宗教として何度も弾圧されながら、50年代、60年代と、ボブ・マーリーらが暮らしたキングストン南部で急速に信奉者(ラスタ)を増やしていった。ボブもバニーもトッシュも、熱心なクリスチャンだったリタも、ラスタとなる。レゲエは、このようなラスタファリアニズムを機軸とする60年代の思想変革(アメリカの黒人解放運動と密接にリンクしている)と共に生まれた音楽だった。

 ボブ・マーリーがそんなレゲエの頂点に立つために、音楽的な後押しをしてくれた重要人物のひとりがリー・ペリーだ。ペリーは、カリブ海的な柔らかさも備えた60年代ジャマイカ音楽(リズム&ブルース~ソウルに影響されたスカや、ロックステディ)から、ファンク的なアプローチのサウンドへと大きくハンドルを切ることを彼らに伝えた男だった。このペリーの土台を元に、ボブたちは音楽性を変える。音像として鋭く、声はむせび泣き(ウェイリング)、リズムは激しくうねるあのサウンドの確立である。“Lively Up Yourself”“Small Axe”“Duppy Conqueror”“Trenchtown Rock”“Sun Is Shining”“400Years”など、その後に世界的に知られる名作、代表曲の多くは、すでに〈ブレイク前〉にジャマイカ国内で作られていたのだった。

 そんなウェイラーズにかねてから注目していたのが、アイランドを主宰するクリス・ブラックウェルである。ブラックウェルはロンドンの裕福な家系に育った人物で、すでにスカの時代にミリー・スモール“My Boy Lollipop”などのレコードをイギリスなどで大ヒットさせていた。もちろん当時のブリティッシュ・ロックでも斬新な感性を発揮していたプロデューサーであり、ボブ・マーリーたちを知らぬわけがなかった。

 ウェイラーズの立場からすれば、世界へ連れ出してくれる有能なプロデューサーなりレコード会社を求めていたわけだが、欧米マーケット進出のために契約したジャドとの活動は不本意な結果を迎えつつあり、困り果てたボブ・マーリーが、ブラックウェルに相談の電話をしたのだった(ジャド時代の貴重な音源は、日本盤のボックスセット『Fy-ah, Fy-ah』などで聴くことができる)。

 そして73年、名作『Catch A Fire』が生まれた。いまやポップ・ミュージックの常識となったベースやドラムのあの〈不安定感〉がどれほど肉体、そして魂を揺さぶるのか、ボブたちはどうしてあのように激しく、悲しみを湛えて歌うのか……アルバムは多くのナゾをロック世代に提供した。言ってみれば〈インターナショナル・レゲエ〉のスタートである。

 続いてウェイラーズは『Burnin'』『Natty Dread』『Live!』と、文句なしのアルバムを世に問い、それは大きな反響となってジャマイカへ帰ってくることになる。もちろん、レゲエを現在のように広めたのは、何もウェイラーズだけの功績ではないが、同時代のライヴァルだったジミー・クリフやトゥーツ&ザ・メイタルズたちではなく、やはりボブ・マーリーというカリスマがいたウェイラーズでなければ、レゲエはこのような巨大なウネリにはならなかっただろう。レゲエはウェイラーズの成功によって一挙に加速し、過激になっていったのである。

 また、グループ名だったウェイラーズをバンド名に、名義がボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズになったのは『Natty Dread』からだった。このアルバムが完成したのは74年の10月だが、その少し前までは仲の良かったトッシュ、バニーとボブの間にはすでにこの頃までに、ずいぶんと冷たい風が吹いていた。『Natty Dread』に親友2人の声を聴くことはできず、代わりにリタ・マーリーを筆頭とした女性コーラス隊のアイ・スリー(ズ)がバンドに加わっている。トッシュとバニーはそれぞれソロの道を歩み出すこととなった。

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