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ラティーノ爆発前夜……すでに火は点いていた!! LATINO REVOLUTION 2000

クイーンの“Teo Torriatte”やポリスの“De Do Do Do, De Da Da Da”、全盛時のスリー・ディグリーズには松本隆作詞・細野晴臣作曲による“Midnight Train”なんて曲もあった。最近では、本人がパート担当したわけじゃないけれども、グウェン・ステファニーのソロ・アルバム『Love.Angel.Music.Baby.』は楽しめた。彼女が本気で原宿文化をおもしろがっている様子が伝わってきたからだ。なかには赤面級の日本語ソングもあるけれど、それでも、自分が普段使っている言葉が曲のなかに出てくると嬉しくなる人は多いと思う。

60年代から作られていた下地
  例えば、60年代からモータウンはスペイン語(西語)ヴァージョン作りに熱心なレーベルだった。“De Do Do Do, De Da Da Da”には西語版もあり、スティングは西語アルバムも作っている。現在の数字でいえば、英語を母国語/母語にする人口は世界で約3億人で、西語はといえば約3億2千万人。スペイン語圏マーケットはそれくらいデカい。USの状況でいうなら、NY市のプエルトリカン人口は55年に50万人を、70年にはすでに100万人を突破している。そうしたなかで、ベンE・キングは“Spanish Harlem”を歌い、ジョー・クーバのブーガルー曲“Bang Bang”(66年)はゴールド・ディスクに輝いた。やがて70年代に入ると、NYサルサが大きな注目を集めるようになり、ヒスパニック系の若者はダンサーやグラフィティ・アーティストとしてヒップホップを支える原動力にもなっていくのだ。

 80年代で重要だったことを挙げるなら、ロス・ロボスの“La Bamba”(87年)がスペイン語曲として初の全米No.1を記録したことだろう(75年に全米1位ヒットとなった、フレディ・フェンダーの“Before The Next Teardrop Falls”は一部が西語だった)。同時に、リッキー・マーティンが在籍したメヌードやグロリア・エステファンのマイアミ・サウンド・マシーンも着実に人気を高めていた。そして、90年には全米のヒスパニック人口は2,200万を超えている。アフリカン・アメリカンを押さえて、近い将来にヒスパニックが全米最大のマイノリティー・グループになるだろう……そう捉えられるようになったのもちょうどこの頃だ。

 大まかにいえば、1846~48年のメキシコ・アメリカ戦争に敗れるまで、カリフォルニアやテキサスはメキシコの土地だった。そんな歴史を背景に、ライ・クーダーが“Across The Borderline”で描いたように、両者の国境は生と死に関わる場所になった。チカーノであるザック・デ・ラ・ロチャが在籍したレイジ・アゲインスト・ザ・マシーン“Maria”や、ブルース・スプリングスティーン“Sinaloa Cowboys”“Balboa Park”(どちらも『The Ghost Of Tom Joad』収録曲)に見られるように、両者の国境地帯では貧富の差とそれぞれのアイデンティティーがせめぎ合っている。ちなみにメキシコ・アメリカ戦争で米軍のメキシコ湾艦隊副司令長官だったのが、黒船を率いて鎖国の日本をこじ開けたペリーだ。ザックの立ち位置と日本の歴史も決して無縁ではない。

90年代のラティーノ・インヴェイジョン
 90年代の東海岸では、プエルトリコ系のロバート・クリヴィレスと故デヴィッド・コールのプロジェクト=C+Cミュージック・ファクトリーが大躍進を果たしている。パナマのエル・ヘネラルをフィーチャーしたC+Cの“Robi-Rob's Boriqua Anthem”はレゲトン文脈で再評価されるべきものだし、最近でもモスト・ヴァリュアブル・プレイヤズ“Roc Ya Body 'Mic Check 1, 2'”(2003年)におけるクリヴィレスの仕事は侮れない。彼にはまだまだ注目しておいたほうがいい。そうそう、リセット・メレンデスの“Goody Goody”(93年)が日本をグリグリいわせたことを覚えている人も多いかもしれない。ニューヨリカン・ソウルは、C+Cからの流れを引き継いでいたともいえる。

 さて。西海岸の90年代に目を移すと、もともとメキシコ系の文化だったローライダー人気とリンクするようにして、(キッド・)フロストらチカーノ・ヒップホップも注目を集めるようになった。テキサスからはセレーナが現われたが、まさに音楽シーンの最前線に躍り出ようというときに元ファンクラブ会長に射殺されるというショッキングな出来事が95年に起こった。クンビア・キングスのAB・キンタニージャ三世はセレーナの兄である。そして、そんなセレーナの生涯を映画「セレーナ」(97年)で演じて、女優として注目されたのがジェニファー・ロペスだったのだ。

話は少し変わるが、90年代を通じて大ヒットを飛ばし続けたセリーヌ・ディオンはカナダの仏語圏・ケベック州はシャルルマーニュの生まれだ。プロデューサーのデヴィッド・フォスターもカナダのブリティッシュ・コロンビア州ヴィクトリアの出身……となると、アメリカン・ポップス、特に90年代以降の〈アメリカン・ポップス〉とはナンぞや?という気にならないだろうか。

 2000年にリリースされたクリスティーナ・アギレラのアルバム『Mi Reflejo』は全米チャートで27位まで上昇した。それはぼくにとって大きな驚きだった。まず、ニューカマーが第2作目にスペイン語アルバムを用意するなんて、ひと昔前には考えられなかったことだったのだ。増え続けるヒスパニック人口を背景にして、〈メインストリームには必ず英語を〉という神話は崩れ去ってきている。ラティーノ・インヴェイジョンは止まらない。

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カテゴリ : フィーチャー

掲載: 2005年08月11日 15:00

更新: 2005年08月11日 20:44

ソース: 『bounce』 267号(2005/7/25)

文/高橋 道彦

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