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特集

The Blind Boys Of Alabama(2)

カテゴリ : ピープルツリー

掲載: 2005年06月16日 18:00

更新: 2005年06月16日 18:12

ソース: 『bounce』 265号(2005/5/25)

文/小出 斉

波瀾に満ちた黎明期

 現在もグループを引っ張るリード・シンガー、クラレンス・ファウンテンの激烈な歌いっぷりを看板にしたグループとして、ゴスペル・クァルテットが隆盛を極めた50年代を生き抜き、クワイア全盛の今日にもその味わいを伝えるBBOA。アメリカ黒人音楽の根幹を成すゴスペル、そのなかでも別格的、伝説的な存在なのである。

 以前のグループ名は、オリジナル・ファイヴ・ブラインド・ボーイズ・オブ・アラバマ。そのまた元を辿れば、ハッピーランド・シンガーズ……といった具合にその歴史は実に60年以上に及ぶ。

 母体となるグループが結成されたのは、なんと1939年。アラバマ州タラデガの盲学校に通う生徒たちによって組まれていた12人編成のグループから、ヴェルマ・トレイラー、トミー・ギルモア、クラレンス・ファウンテン、ジョージ・スコット、ジョニー・フィールズ、オリス・トーマスの6人が独立するかたちで、ハッピーランド・シンガーズ(またはハッピーランド・ジュビリー・シンガーズ)として活動するようになったのがその始まり。メンバーの生年は、ファウンテンが29年、スコットが19年、トーマスが26年、フィールズが27年……と、案外ばらけている。ファウンテンによれば、学校には音楽の先生もいたがみんな白人で、彼らの母体となった12人のグループというのもグリー・クラブのようなものだったそうだ。そこで彼らはラジオに聞き耳を立てて黒人のゴスペルに接し、ゴールデン・ゲイト・クァルテットに強く影響を受けながらグループのスタイルを作り上げていった。また、彼らは学内コンサートや地元の教会だけでなく、学校への寄付金を得るために遠くの教会に行くことも許されたという。

 やがて44年には、学校を辞めてプロの道へ。バーミングハムでラジオ番組に出演するようになり、45年には地元ラジオ局のスポンサーが開催していた全国規模のゴスペル・コンテストに出場。会場のスタジアムに集まった44,000人もの大観衆を前にして歌い、見事に優勝した。と、グループの活動が軌道に乗りはじめた矢先の47年、クァルテット結成以来リードを努めていたトレイラーが事故死。ギルモアも辞めてしまう。そこで、ニューオーリンズ・チョウズン・ファイヴのポール・エクスカーノがリード・シンガーとして加入。一方、最年少だったファウンテンも、徐々にリードを多く取るようになり、ダブル・リード・スタイルに移行していった。

 グループの活動範囲はどんどん拡がり、48年には30年代から人気のあったジュビリー・グループ=コールマン・ブラザーズが運営していたコールマンに初録音。コールマン兄弟らによる歌唱指導もあり、彼らのSP盤は評判を呼んだ。それまでハッピーランド・シンガーズと名乗っていた彼らが、〈ブラインド・ボーイズ〉を名乗るようになったのもこの頃のこと。あるプロモーターが、ファイヴ・ブラインド・ボーイズ・オブ・ミシシッピと対抗する形で、彼らを〈ファイヴ・ブラインド・ボーイズ・オブ・アラバマ〉と名付け、2つのブラインド・ボーイズを対決させ、聴衆に勝敗を決めさせるというゴスペル・プログラムを企画。これが大ウケし、それをきっかけに彼らはファイヴ・ブラインド・ボーイズ・オブ・アラバマと名乗るようになるのである。ちなみに、ミシシッピのブラインド・ボーイズは、ゴスペル史に名を残す天才歌手、アーチー・ブラウンリーをリードに擁した名グループ。ブラウンリーの死後もリード・シンガーを代えながら(ソウル歌手として成功したロスコー・ロビンソンなどもそのひとり)、現在に至るまでその名を残している。2つのブラインド・ボーイズは、ライヴァルであると同時に友好関係にあり、時にメンバー同士が行き来したりもしたのだからおもしろいものだ。

 BBOAはコールマンに続き、フィラデルフィアのゴスペルに吹き込んだ後、52年からスペシャルティでレコーディングを開始。同レーベルには57年まで在籍するがここで一気に花開き、黄金時代を迎える。この当時のシングル盤は〈The Happyland Singers Also Known As Original Five Blind Boys Of Alabama〉という名義でリリースされていたようだ。

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