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カテゴリ : フィーチャー

掲載: 2005年06月02日 17:00

更新: 2005年06月02日 18:46

ソース: 『bounce』 265号(2005/5/25)

文/高橋 道彦

恐るべき才能が押し進めた奇跡の変革

 スティーヴィー・ワンダーのニュー・アルバム『A Time 2 Love』がいよいよ登場する模様だ。1年以上も前から出る出ると噂されていたのが、今度は間違いなさそう。手元には約6曲分の音源が到着している。何と前作『Conversation Peace』以来、オリジナル・スタジオ作品としては約10年ぶり。それでも、新作をリリースしたわけでもないのに、98年度にハービー・ハンコック作品に客演した“St. Louis Blues”で、2002年度にはテイク6との“Love's In Need Of Love Today”(『America:A Tribute To Heroes』収録)で、グラミーのR&B系部門を制しているのだから大したものだ。そして新作には、さらに話題を呼びそうな曲がテンコ盛りに収録される予定だ。『Conversation Peace』は古くからのファンを驚喜させる傑作だったが、『A Time 2 Love』は新たなファンも獲得して、より一般ウケするアルバムになるだろう。

奇跡の始まり

 さて。スティーヴィー・ワンダーは1950年5月13日にミシガン州はサギノーで未熟児として生まれた。すぐに特別小児治療室の早産児保育器に移されたが、その保育器内の過量酸素が原因で永遠に視力を失うことになってしまう。彼と同じ日に生まれ、同様に保育器に入れられた女の子は亡くなっている。生きているだけでラッキーだったと彼は言う。そして、お金のない公立病院で、幼い命を救おうと格闘していた医者の苦悩もよくわかるとも回想している。

 そんな不幸を背負いながらも、スティーヴィーは天真爛漫で、何にでも興味を示す子供だった。3歳の頃に実の父親は蒸発してしまうが、母親ルラは気丈な女性で、環境に押し潰されることはなかった。母親の存在が重要だった点はレイ・チャールズの子供時代とも共通している。やがて、ラジオにかじりついて聴力を鍛え上げると、耳の力を頼りにして仲間と無邪気に外で遊び回った。屋根から屋根へと飛び移ることも朝メシ前。バプティストの教会に通えば、コーラス隊からリード・シンガー、そして子供助祭へとアッと言う間に昇り詰めている。聴力を武器におもちゃのドラムやハーモニカを操るようになり、7歳でピアノも始めた。だが、家の近所で演奏しているところを咎められ、彼は教会に別れを告げることにした。

 街角での演奏は徐々に評判を呼びはじめる。モータウン関係者で最初にスティーヴィーの才能を目の当たりにしたのはミラクルズのメンバー、ロニー・ホワイトとピート・ムーアだった。そして、当時スカウト担当だったソングライターのブライアン・ホランドがオーディションを設定。社長のベリー・ゴーディJrはスティーヴィーとの契約を即決したのだった。当時、スティーヴィーはまだ11歳だったので、幼年労働法に照らして契約書が作られた。彼の収入は特別信託基金に蓄えられ、21歳で成人となるまでプールされるという条件で最初の5年契約が結ばれることになったのだ。

 そして63年に初めての大ヒット“Fingertips Pt.2”が生まれた。8月にはミリオンセラーを記録し、全米チャートを制覇したが、翌64年にはビートルズ旋風が全米を席巻するわけだ。まだ10代半ばの多感なときに、ロックの革新に身近で接したことは、70年代のスティーヴィーを考えるうえでも極めて大きい。マイノリティーの権利拡大を求める公民権運動が広がり、ヴェトナム戦争も本格化していく60年代を、若きシンガーとしてリーダーの自覚も持ちながら過ごしたことは、彼の作風に大きな影響を与えた。なにしろジョン・レノンやボブ・ディランと比べても10歳ほど若いのだ。彼は持ち前の旺盛な好奇心をもってさまざまな音楽を貪欲に消化していった。と同時に、あたりまえのようだが、彼がモータウンのアーティストだったことも重要なことだ。なにしろ、映画「永遠のモータウン」で改めてスポットライトを浴びた名手たち、ファンク・ブラザーズが身近にいたのだから。

 ツアーの最中、モータウンの規則だとスター歌手とミュージシャンは泊まるホテルさえ別だった。レーベル側は両者の扱いを厳密に区別していたのだ。しかし、ミュージシャンたちはそんな事態にほくそ笑んでいた。ホテル代もギャラから引かれるからで、安ホテルに泊まったほうが手元にお金が残ったのだ。だが、スティーヴィーはその線引きを免れた。アーティストからもミュージシャンからも愛され、ツアー中にバンド連中のいるホテルで初めてのセックスも経験している。そんなツアー中には乗っていたバスが銃撃され、身をもって人種差別を体験するなど、スティーヴィーは自身の音楽を磨きながら、スタジオの外では人生を学んでいた。

 そうした経験が大きく実を結びはじめるのは66年からだ。ローリング・ストーンズの“(I Can't Get No)Satisfaction”からヒントを得たという“ Up Tight(Everything's Alright)”では彼自身が作者のひとりとして名を連ねていて、ここから本格的にソングライトの手腕も発揮し出したと言える。さらにボブ・ディランのカヴァー“Blowin' In The Wind”のヒットが続き、ソウル・チャートでは堂々首位を獲得。その結果にスティーヴィーは勇気づけられ、以後、偏狭な枠組を押しつけられがちなブラック・ミュージックの世界に次々と新しい風を送り込んでいくことになった。そんな様子は“Blowin' In The Wind”の次のシングル“A Place In The Sun”に早くも表われる。自作ではないが、何度も〈ムーヴィン・オン(前進する)〉と出てくる歌詞を、スティーヴィーは公民権運動に結びついたプロテスト・ソングのように聴かせる。これもまた、既成の枠組からハミ出しつつあった時期の快作なのだ。

 こうした具合に66年以降はヒットを連発していくスティーヴィーだが、ソングライターとしての成長ぶりを端的に示したのは69年の“My Cherie Amour”だろう。“I Don't Know Why”のB面として発表されながら、ラジオへのリクエストが殺到して、AB面の立場が逆転する大ヒットとなった。

70年、20歳になったスティーヴィーはアルバムのセルフ・プロデュース権を獲得している。ちょうどスタジオ設備や録音技術が大幅に進化し、シンセサイザーを筆頭とする電子楽器が大きな注目を集めはじめた時期だ。スティーヴィーも70年作『Signed, Sealed & Deliverd』以降、多重録音などサウンド的な冒険を大々的に繰り広げるようになっていく。71年の『Where I'm Coming From』は、ヴォーカル以外はたったひとりで、しかもわずか4週間で完成させたといわれている。このアルバムは全曲が70年に結婚したシリータとの共作名義になっていた。

▼代表的なスティーヴィー・ワークスを収めた作品

インタビュー