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特集

フィッシュマンズ(2)

カテゴリ : ピープルツリー

掲載: 2005年04月28日 18:00

ソース: 『bounce』 264号(2005/4/25)

文/山内 史

バンド・ブーム到来

 その年の冬、ラ・ママを中心に月1~2回のペースで精力的にライヴ活動を続けていたフィッシュマンズに、最初の大きな転機が訪れる。オムニバスCDへの参加要請。

 その当時、80年代半ばごろから、「宝島」「FOOL'S MATE」「DOLL」といった雑誌で紹介されるインディー・レーベルならびにバンドが人気を博し、〈インディーズ・ブーム〉と呼ばれる現象にまでになっていた。その様子を、おそらく別宇宙の出来事のように見ていたであろうフィッシュマンズに多少の逡巡はあったであろうが、結局はそのオムニバスへの参加を決め、〈時間〉時代からのレパートリーである“いなごが飛んでる”と、“Special Night”の2曲をレコーディングする。

〈竹の子族〉など時代の徒花的若者風俗発祥の地である原宿歩行者天国がいつしかアマチュア・バンドに占拠されていたのに加え、TV番組「平成名物TV・いかすバンド天国」が決定打となり、インディーズ・ブームという現象は〈バンド・ブーム〉という社会現象に肥大していた。そんななか、フィッシュマンズの初レコーディングとなったオムニバスCD『PANIC PARADISE』がリリースされる。89年3月、佐藤伸治23歳の春のことであった。

 CDリリース後、フィッシュマンズの認知は多少なりとも上がっていく。なにせ世の中はバンド・ブーム。出前を取るかのようなイージーさで次から次へとデビューしてくるバンド群。フィッシュマンズはというと、デビューに目の色を変えるでもなく、黙々と数え切れないほどのライヴをこなしていった。なにせ世の中はバンド・ブーム。演る場所には事欠かない。そんななか、フィッシュマンズは後に繋がる大きな出会いをいくつか重ねていた。

『PANIC PARADISE』への参加が縁で交流が生まれていたスカ・バンド、ムスタングAKA。そこには、キーボーディストのHAKASEがいた。フィッシュマンズとはお互いに惹かれ合うものがあり、90年2~3月頃からサポートとしてフィッシュマンズのライヴに参加するようになっていた。そうしてムスタングAKAを脱退したHAKASEは、正式に5人目のフィッシュマンとして迎え入れられることになる。

 以前から敬愛していたダブ・バンド、MUTE BEATとの共演の機会に恵まれたのもこの時期のこと。佐藤は、後にファースト・アルバムのプロデューサーとなる小玉和文(現・こだま和文)と、そうと知ってか知らずか、幸福な邂逅(サイン付き)を果たしたのだった。

 91年、佐藤伸治25歳。バンド・ブームにも世間が疲れ始めていたこの時期、プロデューサー・小玉(MUTE BEATは89年に解散)の「ロックステディのアルバムを作ろう」という指針のもと、オーストラリアはメルボルンで2か月に渡りレコーディングした成果が、4月にリリースされたデビュー・シングル“ひこうき”、そして5月のファースト・アルバム『Chappie, Don't Cry』として結実する。この年のフィッシュマンズはデビュー・イヤーに相応しく、7月にシングル“いなごが飛んでる(東京タワーミックス)”、11月にミニ・アルバム『Corduroy's Mood』をリリースする一方で、数多くのライヴをこなし、なかなか精力的に過ごしている。

 ここで余談。この年の12月、筆者が当時勤めていたライヴ・レストランで、フィッシュマンズは招待制のライヴ・イヴェントを行っている。そこに集合したファンのほとんどは〈かわいいもの好き〉風なほんわかした女の子。イヴェント自体もほのぼのと進行していて、働く立場としても心地良いものだった。
「ああ、フィッシュマンズはこういうムードに支えられているのだなあ」と思う一方で、会場をのそのそと徘徊する佐藤からはファンに向けられるものとは真逆の〈険〉のようなものが感じられ、「実はただ者じゃないなあ」とも思ったものだ。

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