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カテゴリ : フィーチャー

掲載: 2005年02月24日 18:00

ソース: 『bounce』 261号(2004/12/25)

文/林 剛

シカゴ・サウンドを確立したNYのレーベル──いまなお受け継がれる壮麗なグルーヴの魔法

音楽に興味がなかろうとも、米国人なら誰もが〈Brunswick〉のロゴを一度は目にしたことがあるはずだ。そう、ブランズウィックは、もともとボウリングなどの娯楽商品を扱うメーカーである。創業された1920年代には電気蓄音機を開発し、レコード・レーベルも設立。つまりSP盤の時代から音楽事業に参入していたわけで、デッカ(後のMCA)の配給を得てビング・クロスビーらのヒットを飛ばしていた。

 そんなブランズウィックがNYを本拠地に、R&Bを扱うレーベルとしての色を強めていったのは50年代後半。副社長のナット・ターノポルがジャッキー・ウィルソンを迎え入れ、58年に“Lonely Teardrops”をR&Bチャート1位に送り込んだことでその快進撃が始まった。この頃ジャッキーに楽曲を提供していたのがモータウン設立前のベリー・ゴーディJrだったというのは有名な話だが、しかし皮肉にも、モータウンが台頭してくるとブランズウィックのドル箱スターだったジャッキーの人気に陰りが見えはじめ、レーベルも勢いを失いかけた。

 そこで66年、副社長のナットはオーケーなどでシカゴ・ソウルの名曲を生み出していたカール・デイヴィスに打診。試しにジャッキーへの楽曲提供を依頼すると、66年に“Whispers(Gettin' Louder)”がR&Bチャート5位を記録。翌67年には“Higher And Higher”(バッキングはあのファンク・ブラザーズの出張プレイ!)がジャッキー久々のR&Bチャート1位となった。結果、カールはブランズウィック内におけるシカゴ・ソウル担当A&Rの座を射止め、シャイ・ライツやジーン・チャンドラーら地元シカゴのアーティストやスタッフを抱え込んでいく。こうして60年代後半から70年代中期、ブランズウィックはカートムと競い合うようにしてシカゴ・ソウルを盛り上げた。

 ところで、通常〈ブランズウィック〉と言う際には、そこにふたつのサブ・レーベルも含まれている。ひとつはカール・デイヴィスが67年に立ち上げたダカー(Dakar)。タイロン・デイヴィスをメインに個性的なアーティストを輩出したレーベルだ。そしてもうひとつがBRCというレーベルで、その実態は謎めいた部分もあるが、ここからは主に本社NY周辺の新人アーティストが登場している。

 こういったサブ・レーベルを傘下に収め、自社内で同一楽曲を複数アーティストに競合リリースさせるなどさまざまな実験を試みながら発展を遂げていったブランズウィック。75、6年までその動きは順調だったが、NY本社=ナット・ターノポルとの確執などもあってシカゴ支社のカール・デイヴィスが離脱(その後、彼はシャイ・サウンドを設立)、それまで抱えていた多くのスターをも失う結果となった。それでもレーベルは存続し、80年前後にはディスコやラップにも挑戦。以降、移転→再興のニュースを聞くも、さすがに全盛期の勢いは見るべくもない。だが、ブランズウィックが残した遺産に触れれば、創業モットーたる遊びゴコロとインディペンデントの精神を貫いて時代に挑んだ、その果敢さに胸打たれるはずである。

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