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特集

Chaka Khan(2)

カテゴリ : ピープルツリー

掲載: 2005年02月17日 16:00

更新: 2005年02月17日 18:14

ソース: 『bounce』 261号(2004/12/25)

文/佐藤 英輔

情熱の女

 チャカ・カーンは1953年3月23日、イリノイ州のグレートレイクに生まれている。育ったのは同州の大都市シカゴ、子供のころから歌うのが大好きで、11歳の時に最初のグループを組んだという。育った家庭はカタギだったようだが、学校では札付きの不良であったようだ。学校なんてどうでもいいのよ、私には歌があるから……子供ゴコロに彼女はそううそぶいていたんじゃないかな。

 結局16歳の時に高校をドロップアウト。だが、ブラック・パンサー主宰の講座を受けるなど社会的な眼も養い、彼女は見聞を広げ、それは改名にも繋がった。そのチャカ・カーンという名前については、かつて「ハワイとスペインとアフリカの言葉を合わせたもの」なんて言っていたこともあるが、一般的にはアフリカン・ネームとされている。なんでも、アフリカの言葉で〈シャカ〉とは戦いに関する言葉で、さらに〈火〉とか〈赤〉と言った意味があるという。なるほど、そこらあたりは〈燃える女〉〈情熱の女〉と呼ぶに相応しい彼女にピッタリだ。ちなみに、チャカ・カーンの本名はイヴェッテ・マリー・スティーヴンス。1歳違いの妹はアリオラやミラージュからリーダー作を出したこともあるタカ・ブーン、けっこう歳が離れた弟はマーカス・ミラーが80年代中期に組んでいたジャマイカ・ボーイズ(WEAからアルバムもリリースしていた)のリード・シンガーを務めていたマーク・スティーヴンスだ(彼はチャカの作品にも参加している)。

 ライフやベイビーシッターズなどいくつかのバンドに係わったあと、彼女はアメリカン・ブリードというロック・グループのメンバーたちとルーファスを結成する。そのとき、彼女はまだ17歳。その出自が示すようにバンド構成員は白人が多く、実際ロック・バンド的なところもあった音楽性のもと(とくに1作目『Rufus』はそう)、派手な髪形をした小柄な黒人女性シンガーが爽快に歌い倒すという図式をルーファスは持っていた。だが、世の中うまくできたもので、そのはみ出したソウル・バンド・サウンド(ルーファスの商業的成功は2作目『Rags To Rufus』でスティーヴィー・ワンダーから贈られた“Tell Me Something Good”が大ヒットしたのが発端だが、スティーヴィーもあるいはそういう側面を気に入ったのではないか。その2年前、スティーヴィーはジェフ・ベックに〈迷信〉を贈っている)は傍若無人と言えるようなエネルギッシュなチャカの喉を強調するのに適していた。そして、その構図は、力を持たざる存在である〈女性〉の〈アフリカン・アメリカン〉が白人男性を強い個性で組み敷くイメージを与えるものであり、特に同胞女性には凄いと思わせるものがあったのではないか。しかも、その女性=チャカと言えば、私には隠さなければならないものは何もないとばかりに、お臍から下に延びる大きな手術の縫い後を隠すことなく見せ、すでに母親でもあった。ああ、この人は型破りな、胸のすく人生を本音で送っている──チャカ・カーンは当初から受け手にそう思わせるものを十分に出していたのだ。

 ここで、もう少し彼女のオルタナティヴと言えなくもないシンギング・スタイルについて考えてみよう。その断続的に韻を踏みながらサウンドの上をすうっとカッ飛ぶような豪快なスタイルは、当時のまったりとしたR&B主流の歌い方とは明らかに一線を画すものだったと言える。ソロになってから随所に出されるチャカのジャズ・ヴォーカル好きを見ても推測がつくように、実はその音楽性やサウンドと対峙するようなスケールのでかい歌唱法は器楽的なジャズ・ヴォーカルのスタイルを基にしたものと解釈できるだろう。その枠を打ち破っていくような自由を感じさせる歌い方(そして、先に触れたその佇まい)は本当に当時のR&B界では革新的。それは新しい時代、新しいソウル・シンガーの到来を見事に伝えるものだったのだ。蛇足だが、現在のネオ・ソウル・シーンにおいて、エリカ・バドゥやジル・スコットをはじめとするジャジーなヴォーカル・スタイルを個性の大きな拠り所とするタレントが重要な位置を得ているが、実はその先駆者がチャカ・カーンだったと指摘することは決して的外れではないはずだ。

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