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モータウンが残した永遠のマジック

カテゴリ : フィーチャー

掲載: 2004年12月02日 13:00

更新: 2004年12月02日 16:57

ソース: 『bounce』 260号(2004/11/25)

文/出嶌 孝次

デトロイトから世界に届いたサウンド──モータウンがなければ音楽の未来は別の姿をしていた

 光のあるところに影ができる。映画「永遠のモータウン」によって脚光を浴びたファンク・ブラザーズが〈影〉だとしたら、その〈光〉を一身に受けていたのは舞台に立つスターということになる。そして、その構図を作り出したのは、モータウンの設立者、ベリー・ゴーディJrだった。

 モータウンの設立は59年だが、その歴史はそこからさらに数年遡る。地元デトロイトでジャズ専門のレコード店を運営していたこともあるベリーは、フォードの自動車工場で働きながら作詞作曲に励んでいた野心家で、そのひとつが地元の名シンガーだったジャッキー・ウィルソンのヒット曲“Reet Petite”(57年)として世に出たことで、彼の挑戦はスタートした。続いては、当時まだ大学生だったスモーキー・ロビンソンと“Got A Job”(58年)を共作し、スモーキー率いるマタドールズ(後のミラクルズ)が歌った同曲もヒット。が、レコード会社を経て得られた印税がわずかだったことからベリーは自身のレコード会社設立へと至る。そうやって設立されたのがモータウンだったのだ。

 やがて音源も独力で全国配給するようになったモータウンはジワジワと勢力を伸ばしはじめる。60年にはミラクルズの“Shop Around”がレーベル初のR&Bチャート1位に、翌61年にはマーヴェレッツの“Please Mr. Postman”がレーベル初の全米ポップ・チャート1位に輝いている。その裏にはベリーの完璧なコントロール=レコードやアーティストの品質管理があった。ソングライター/アーティスト/演奏者を分業してそれぞれを競わせ、自動車工場の生産ラインのごとく流れ作業で曲を仕上げていく。そんな才能の坩堝からホランド=ドジャー=ホランドらのヒットメイカーが次々に生まれた。一方でアーティストたちには洗練させた服装や振る舞いを学ばせ、振り付けや歌のトレーニングも行った。そうやって出来上がった楽曲を入念な選考会議でふるいに掛け(その副産物として無尽蔵の未発表音源が残されているのだ)、ラジオに合うミックスを選ぶ……といった具合にそのシステムは隅々まで徹底されていた。そんなモータウンの勢いは、シュプリームスが5曲連続で全米1位をマークした65年にピークを迎え、ビートルズら英国勢による通称〈British Invasion〉にチャート上で唯一対抗できるアメリカ音楽だとも言われた。

 が、社会情勢の変化に伴って求められる音楽の姿も変わりはじめた60年代後半になると、モータウンもファンクの胎動に意識的なクリエイターたちを重用してそれに応えていった。その一方で、スライ・ストーンら〈新世代〉の活躍を目の当たりにしたアーティストたちの自我の高まり、表現欲は徐々に押さえることができなくなっていく。それはベリーが築き上げたシステムの崩壊を意味していた。

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『This Is Northern Soul!』(Debutante)


『This Is Northern Soul! Volume 2』(Debutante)

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