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DJ KRUSH(2)

カテゴリ : ピープルツリー

掲載: 2004年11月18日 14:00

更新: 2004年11月22日 12:48

ソース: 『bounce』 259号(2004/10/25)

映画「WILD STYLE」からKRUSH POSSEへ

 DJ KRUSHは、この映画を観てヒップホップに感化されると、早速機材を手に入れようとした。だが、その当時、東京でもターンテーブルやミキサーが身近に手に入れられるわけではなかった。彼はそうした苦労もしばしば語っている。スクラッチのやり方を教えてくれる人もいず、どのターンテーブルを買えばいいのかも、ディスコ・ミキサーとはその当時すぐに入手できるのかも、彼にはわからなかった。彼だけではなく、ほとんどの日本人にはそのことはわからなかったのである。ターンテーブルの名器、SL-1200が日本製だというのはまったく皮肉なことだが。

 東京の80年代初め~半ばのナイト・ピープルは大きく2つに分けることができた。一つは、〈ツバキハウス〉の〈ロンドン・ナイト〉、〈ピテカン・トロプス・エレクトス〉〈玉椿〉〈クライマックス〉といった場所に出入りしていた人々である。彼らのなかには、次の時代にDJになる者が少なくなかった(彼らに提供された場所は〈トゥールズ・バー〉〈P.ピカソ〉〈第3倉庫〉〈バブリン・ダブ〉などというクラブだった)。もう一つは、ブラック・ミュージックがメインにプレイされる、当時〈ディスコ〉と呼ばれていた場所で、DJ KRUSHはこの流れに属するのだが、彼はヒップホップをプレイさせてくれる場所を発見できなかったらしい。というのは、彼が仲間たちとヒップホップをプレイする場所として選んだのは、原宿の歩行者天国(日曜日に代々木公園沿いの道路が封鎖され、そこはバンド志望者、ダンサーなどありとあらゆるユース・カルチャーのスタイルの見本市だった)であり、「WILD STYLE」の公開年から考えると、その時期は早くても84~85年ぐらいだと考えるのが妥当だろう。この活動は、DJ KRUSHをB FRESH 3(MC BELL/DJ KRUSH/KRUSHの実弟であるDJ BANGがメンバー)に導くこととなる。CAKE K、DJ BEATも加わり、当時芝浦インクスティックというヴェニューで行われていた、ヒップホップ/レゲエのアーティストを選ぶ〈第2回DJアンダーグラウンド・コンテスト〉で2位に入賞。しかしグループの分裂により、DJ KRUSHはB FRESH 3のボディガード役(ステージで睨みを効かせる役)であったMUROをラッパーとして加え、KRUSH POSSEを結成することになる。後に威勢のいいDJ GOも加わり、彼らは3人で活動していく。しかし、DJ KRUSHがクラブでのプレイをするのは、80年代末になってからであり、それは六本木の〈ドロッピー・ドロウワーズ〉というヴェニューだった。クラブと〈ディスコ〉の中間のような雰囲気だった、と後にMUROは振り返っている。「ちょうどいい場所のように思えた」と。

  90年には、KRUSH POSSEはコンピ『YELLOW RAP CULTURE』に参加している。このコンピには、(GANXSTA)DX(彼の名前は日本のヒップホップの歴史からは外せない)をメンバーとするHOME BOYSなどが参加しているが、インディペンデントなヒップホップへの果敢な挑戦として特筆すべきアルバムだったと言えるだろう。ちなみに、ここに収められたKRUSH POSSEの楽曲はMUROのベスト・アルバム『BACK II BACK』で聴くことができる。しかし、KRUSH POSSEはフル・アルバムを残さないで解散。一つには、あまりにも当時のレコード会社のヒップホップへの理解がなかったのも理由だとされている。DJ KRUSHはその当時のことを「ダウン・タウン・ブギウギ・バンドみたいなことをやれ、と言われた」と語っているが、今から想像力を振り絞っても、レコード会社が何を彼らに求めていたのか理解するのは難しい。KRUSH POSSEが空中分解した後、MUROはラッパー/DJとしてみずからの道を歩み始めた。そして、DJ KRUSHは、ラッパーのいないヒップホップDJになってしまうのだ。

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