1980~BOY-KEN、ランキン・タクシー
BOY-KEN 処女作をリリースするBOY-KENが語るシーン創生期とVIP
日本のシーンにおいてレゲエ・ミュージックがクラブ・ミュージックとして認知されていた80年代から90年にかけて、レゲエ・ミュージックのジャンルとしての確立に大きく貢献したのがBOY-KEN、そしてV.I.P. INTERNATIONAL(以下VIP)だ。
「俺はこの世界に必要だって思ったんですよね。親にも言ったことあるんですけど。周りにレゲエをやってるヤツがあんまりいなかったし、東京のシーンに必要だと思ってね。それだけレゲエにヤラれたんですよ。よく〈人生が変わる〉とか言うじゃん。最初そんなこと言われてもピンとこなかった。でも、いまはすげぇわかる」。
BOY-KENが今に至るきっかけは、たまたま隣の隣に住んでいた須永辰緒と出会い、原宿にあったクラブ〈モンクベリーズ〉で働いたことに始まる。
「俺はそのころDJになりたいというよりはMCになりたい、ラップをやりたいと思って辰緒さんにいろいろ相談に乗ってもらっていて。そのころは高木完ちゃん、近田春男さん、いとう(せいこう)さん、宮崎泉(DUB MASTER X)さん、トシ(中西俊夫)ちゃん……そういった人たちにお世話になって。同年代でいえばMUROとかECDもそうだし、CHAPPIEもね」。
その後MAJOR FORCE、須永のレーベル=RYTHEMでのリリースを経て、VIPとしての活動を本格化していく。
「MAJOR FORCEでのシングルが出たぐらいかなぁ、いっしょに遊ぶようになっていたKANG-DONGがバンドをやってたから、俺はそこのスタジオにいってラップをやってたんだよ。もともと〈MASSIVE〉っていうクラブが新宿にあって、そこによく遊びに行ってたんだよね。そこのファイナルのときに初めてV.I.P. BANDをやって。情報がなかった時期だったから、みんないい意味でその気になってた。いま考えると雰囲気は良かったような気がするね。いまやってるヤツらもだいたい客で来てたし」。
VIPはその後レーベルとして月に2タイトルの7インチ・シングルを発表しはじめ、多くのレゲエ・アーティストの発表の場として機能してきた。その後も東京のストリート・ミュージック・シーンにおいて独自のスタンスで活動を続けてきた彼ら。その活動は、クラブ・ミュージックとして始まったそのルーツから発展していったものに他ならない。つまり〈東京のレゲエ〉。このたびリリースされるBOY-KENのファースト・フル・アルバム『EVERYTHIN' IS EVERYTHIN'』を聴いてもらえれば、その集積がわかるはずだ。
「いろいろ考えたこともあったけど、今回は俺たちVIPのダンスホール・アルバムだね。今やるべきものはそれかなって」。
このアルバムには〈VIPのダンスホール〉に相応しいゲストが参加している。AI、BIG-O、DELI、HI-D、MOOMIN、SHIBA-YANKEE、YOYO-C、YOU THE ROCK★、ZEEBRAなど。トラック制作陣はDJ HAZIME、DJ YUTAKA、DJ WATARAI、MASTERPIECE、MIGHTY CROWNからSAMI-TとGUAN CHAIのユニットなど豪華な面々だ。
「今回彼らのようなヒップホップのトラックメイカーに作ってもらったのも全部ダンスホール。ヒップホップのDJのセレクションのなかにもダンスホールは普通に交ざってるしさ。また、そういう人たちの耳で作るダンスホールもおもしろいなぁって思ってて。そこはまた東京のスタイルでもあるし、イコール俺たちのスタイルにも合うかなって」。
「やりたいことはまだまだありますよ。ちょっとづつ、確実に。これから、これから。だってこれはファースト・アルバムだからね」と話すBOY-KEN。日本のダンスホール・シーンを作り、東京のストリート・ミュージック・シーンを表現してきた彼らの功績や歩みをここだけでまとめるのは難しい。だが、先にも書いたようにこのアルバムはそのすべてを教えてくれると思う。(前田和彦)
▼VIPの作品を一部紹介。
ランキン・タクシーが語る80~90年代初期
ランキンさんがはじめてジャマイカに渡ったのは83年6月のこと。
「まあ、カルチャー・ショックですよね。そのとき〈レゲエはこういう風に楽しむもんなんだな〉とは思いましたよね。音楽空間としてね、ウチでひとりで聴くもんじゃないな、と思ったんだね。それでそういう遊び場を作りたいという気にはなったよな。で、翌年の1月に〈ジーン・ジニー〉というライヴハウスにターンテーブルとディスコ・ミキサーとテープ・エコーだけを持ち込んでやり始めたんですよ。クルーとしてははじめてじゃないかな? その前にレゲエのバンドはありましたけどね。PJのCOOL RUNNINGSとかNAHKIのI&I COMMUNICATION……MUTE BEATもいたかな。そのころのバンドはワンドロップのバンドが多くて、DJはいなかった。ボブ・マーリー指向が強かったから。
レゲエをやる前は建築の仕事をしてたんですよ。システムを作るときに役立ったこと? んー、そんなたいしたもんじゃないですけどね。だって板で箱を作るだけですから(笑)。まったくないとは言わないけど。システムを作り出したのは……85年ぐらい。そのころはほかにシステムを所有してるクルーなんていなかったんです。で、いつかいろんなDJがでるショウができればいいなぁとは思ってたんですけど、86~88年あたりからようやくHASE-TやらCHAPPIEやらが出てきた。そのころは100~200人は集まるようになってたかな。
そういえば90年前後ぐらいにJ-WAVEのラジオ番組で1時間公開ラバダブをやったことがあったんですよ。ランキン・タクシー、CHIEKO BEAUTY、ECD、CHAPPIE、HASE-Tの5人で。後でそのときのテープを聴いたんですけど、まだ汚れてないというか(笑)、ジャマイカへの憧れが強く出てましたね。その後結局日本語のスタイルでやるしかなくなってきちゃうんだけど。マーケットがそうなってきたからね。そういうわけで〈ジャパレゲ〉という言葉が出てきた。そこで失われたのは黒人のノドと英語やパトワの響きでしょう、うん」。(大石 始)
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