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特集

George Michael(2)

カテゴリ : ピープルツリー

掲載: 2004年04月22日 18:00

更新: 2004年04月22日 18:36

ソース: 『bounce』 252号(2004/3/25)

文/出嶌 孝次

ワム!の成功……若くして立った頂点

 63年6月25日、ジョルジオス・キリアコス・パナイオトゥ──ジョージ・マイケルはギリシャ系移民の息子として、ロンドン北部のブッシーに生まれている。早くから音楽に夢中だった彼は、ソウルやディスコのレコードにハマッていく(最初に買ったレコードがミラクルズの“Love Machine”だったというのは有名な話)。12歳の時には学友のアンドリュー・リッジリーと、音楽の趣味からも意気投合。アンドリューの弟などもメンバーに加えてソウル・バンドを結成している。ちなみに、同じ12歳の時には歳上の女性と初めてのセックスを経験……関係ないか。かように青春を謳歌していたジョージは、16歳になると折からの2トーン人気に触発されて、アンドリューらと共にエグゼクティヴという4人組のスカ・バンドを結成している。が、あるライヴを目前にして他のメンバーが脱退し、ジョージとアンドリューはデュオとしてステージをこなさなければならなくなった。ワム!の始まりだ。

 ふたたびソウル/ディスコをベースにした音楽性に立ち返ったふたりは、ジョージがヴォーカルとベース、アンドリューがギターとドラム・マシーンを担当してデモを制作。インナーヴィジョンなるレーベルに完成度の高いデモテープを持ち込み、当時の担当者を驚かせている。82年3月に同レーベルと契約を交わした彼らは、5月のシングル“Wham Rap!(Enjoy What You Do?)”で早くもデビュー(しかもマルコム・マクラーレン“Buffalo Gals”にも先駆けたUK最初期のラップ・チューンでもある)。この歩みの早さは、ワム!の音楽性がすでに出来上がっていたからこそだろう。続く“Young Guns(Go For It!)”はティーンの安易な結婚に対する警告も込めた歌詞が話題を呼んで初ヒットを記録。そして、サード・シングル“Bad Boys”でワム!はブレイクを果たす。当初の彼らは不良っぽいイメージで人気を博したのだが、そのキャラが作為的だったことは後年のジョージも認めている。好調な流れを受けて83年7月にリリースされたファースト・アルバム『Fantastic』は、全英チャートで初登場1位を獲得。ジョージは全曲のプロデュース/アレンジを担当、全オリジナル曲を書いている。では、相棒のアンドリューは? レコード上のパートではギター演奏のみだが、内気なジョージに対し、昔から人気者気質だったアンドリューの持つ〈華〉の存在がワム!をアイドルたらしめるのに重要だったことは見逃してはいけない(たぶん)。

『Fantastic』からカットされた“Club Tropicana”も易々とヒットして意気揚がる彼らは翌84年、“Wake Me Up Before You Go-Go”で新しいワム!の姿を見せる。〈バッド・ボーイ〉なイメージをあっさりと捨て去り、〈ソウル・ボーイ〉を標榜したふたりは、すでにポップ・シーンの王道を踏みしめる存在に成長していた。8月にはジョージが不朽の名曲“Careless Whisper”でソロ・デビュー。さらに“Everything She Wants”“Freedom”と立て続けにヒットを飛ばし、セカンド・アルバム『Make It Big』はついに全米で、そして日本を含む世界各国でもNo.1を記録。ワム!は世界中で愛されるトップ・アーティストになった。その年の暮れには“Last Christmas”……と、その勢いはいささかも衰えず。85年には西洋のポップ・アーティストとして初の中国公演を敢行。同年にも“I'm Your Man”が全英1位を獲得し、ワム!の無敵状態は永遠に続いていくかに思われたのだ……。

 が、翌86年3月に突然の解散宣言。4月にはジョージが2枚目のソロ・シングル“A Different Corner”をリリース。そして6月28日、ロンドンのウェンブリー・アリーナに7万人を動員して解散コンサートが行われた。続いて、ラスト・アルバムの『Music From The Edge Of Heaven』がリリース――デビューから5年足らずで数々の記録を塗り替えたワム!はキャリアの絶頂期にその幕を閉じた。解散の理由はあきらかにされていないが、ポップ・ユニットの枠から解き放たれたジョージがその才能の翼を大きく広げて羽ばたいていくことは明白だった。

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