フリッパーズ・ギターにまつわる、記号論を越えた現場からの声(2)
デス渋谷で起こったシーンの変革
北沢「個人的には84年のイギリスの〈夏〉を体験したことが大きかった。当時スタイル・カウンシルに夢中だったから、彼らの主宰するレスポンド・レーベルのクェスチョンズっていう若いグループのライヴを観に行ったりして。社会現象としてはフランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドなんだけど(笑)、カルチャー・クラブとかデュラン・デュランも全盛で、ニューロマからネオサイケ、ヒップホップまで、チャート的にもイギリスがおもしろいときだったんだよね。
84年ってペイル・ファウンテンズやブルーベルズがファーストを出した年で、ネオアコも夏の盛りだった。フリッパーズのファーストに触れたとき、84年の夏が自分のなかで一気に甦ってしまってワクワクしてたら、90年の初夏、セカンドが出る前に、ライターでもないのに取材できることになって、はじめて会いに行ったら小沢くん一人で。下北沢の喫茶店の窓際の席で、ものすごい不機嫌な顔してスパゲティ食ってるの(笑)。〈なんで俺がこんなところでこんな取材受けなきゃいけないんだ〉みたいな感じ。で、とっさに〈僕は84年にイギリスにいたんだ〉と言ったきり黙っていたら、小沢くんが〈何を言い出すんだろう?この人は〉みたいに怪訝そうな顔をして、でも5秒ぐらい考えてすぐわかったって感じで〈84年……大変な年でしたよねえ〉って心を開いてくれた。小沢くん、初対面から〈奈落のクイズマスター〉だったな」
小林「どっちかっていうと俺は〈デス渋谷系〉とか呼ばれちゃってた人なんで(笑)。北沢さんとか〈英国音楽〉(〈米国音楽〉初代編集長の小出亜佐子が主宰していたインディー・マガジン)がやってたようなことをもっと俺なりに進めようと思ってた。フリッパーズ以降、ライヴハウスとか行ってもギター・ポップ・バンドばっかりになっちゃってムカついたんですよ。
俺は中原昌也くんとかシーガル(・スクリーミング・キス・ハー・キス・ハー)とかのほうがフリッパーズに近いと思った。なんかハードコア・パンクまである時期から変わったし。〈ネオ・ハードコア・テイル〉って呼ばれる80年代のハードコアの文脈では捉えきれないバンド、例えばNUKEY PIKESとかBEYONDSとか。フリッパーズにハマってたリスナー世代がちゃんと入ってきやすいハードコアのカルチャーができてた。ボアダムスがメジャーになってきたっていうか、アヴァンギャルドなんだけど〈ポップじゃない?これ〉ってなったのもそのタイミングだったような。そういう流れがバカバカできてたときに、俺はフリッパーズって偉大だなって思ったかな」
デス渋谷系
当時、数多存在したフリッパーズ・ギターもどきのバンド(とその取り巻き)に対して、確固たる独自の音楽性、精神性でもって活動をしていた人たちのことだが、決して〈アンチ・フリッパーズ〉を謳っていたわけではなく。左から、シーガル・スクリーミング・キス・ハー・キス・ハーのベスト盤『DYING FOR SEAGULLS!』(ポリスター)、NUKEY PIKESの98年作『NUKEY PIKES』(ZK)