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RICKIE LEE JONES


1979年、ウェストコーストのロック・シーンは黄昏の時を迎えていた。イーグルスはすでに崩壊状態にあったし、その他の70年代のウェストコーストを代表していたバンド――ドゥ-ビー・ブラザーズやリトル・フィートなども商業主義やドラッグの誘惑に逆らうことができなかった。ウェストコーストのロック・シーン全体から腐臭が漂ってきた時期、それが1979年だった。また、この当時は、ロンドンやNYでパンク・ム-ヴメントが拡大していた。よってウェストコーストのロックを聴いている場合ではなかった。ジョニ・ミッチェルやランディ・ニューマン、ニ-ル・ヤングのようなごく少数の例外を除いては。リッキー・リ-・ジョーンズがアルバム『Rickie Lee Jones』で鮮烈なデビューを飾ったのは、このような1979年の春のことである。

家出少女からシンガー・ソングライターへ

 リッキー・リー・ジョーンズは、54年11月8日シカゴ生まれ。祖父はヴォードヴィリアン。父親は若い頃に作曲家と歌手をめざしていた。そして母親は、幼いリッキーに美しくも悲しい歌をたくさん教えてくれるような女性だった。このような家庭環境で育ったリッキーは幼い頃から歌うことが好きで、また、7歳の時にはすでに曲を作っていた。リッキーは、アリゾナ州フェニックスやワシントン州オリンピアなどいくつかの町を転々としながら育ったが、早熟だった彼女は10代半ばの頃から家出を繰り返し、やがてアルコールやドラッグの味を覚えるようになった。

 リッキーは19歳の時にLAにやってきた。LAでは、ウェイトレスをしながら、小さなクラブで歌ったり、スポークン・ワードのパフォーマンスを行っていた。そして彼女は、まずチャックE・ワイスと知り合いになり、それから彼をとおしてトム・ウェイツと出会い、恋に落ちた。ちなみにトム・ウェイツのアルバム『Blue Valentaine』(78年)のインナーと裏ジャケットにはリッキーが登場し、また、このアルバムにはチャックEに対する感謝のクレジットが記載されている。

 78年、リッキーのマネージャーの手によって、4曲入りのデモ・テープがワーナーに送られた。このデモはもともとA&Mのために制作したものだったが、ワーナーのスタッフに気に入られた。また、この頃リトル・フィートのローウェル・ジョージは、友人からリッキーの“Easy Money”を聴かされ、自分のソロ・アルバム『Thanks I'll Eat It Here』で採り上げる準備を進めていた。こうした偶然も重なり、リッキーはワーナ-と契約を結び、レニー・ワロンカーとラス・タイトルマンという当時のワーナーを代表する敏腕スタッフによるプロデュースのもと、アルバムのレコ-ディングに取りかかった。

 そして79年の春、『Rickie Lee Jones』がリリースされた。このファースト・アルバムがリリースされる少し前にリッキーは、こんなことを語っていたという。もし自分がラジオ番組の選曲担当者で、自分の曲をどこでかけるか決めなければいけないとしたら、きっとヴァン・モリソンとブルース・スプリングスティーンの間にセットする、と。このエピソードが物語るように、リッキーは、なかなか分類しにくいアーティストだった。もちろん、ジョニ・ミッチェルやローラ・ニーロといった先輩格の女性シンガー・ソングライターの影響は感じられた。ただし、いくつかの曲には、トム・ウェイツやブルース・スプリングスティーンに通じるストリート感覚が映し出されていた。そして自由奔放なヴォーカル・スタイルには、ジャズやポエトリー・リーディングからの影響が認められた。また、彼女は、無垢な少女のようでもあり、あばずれ女のようでもあった。さらに言うと、リッキーは、いわば遅れてきたビートニクであり、すでに晩年を迎えた文学少女のようであった。それだけに、彼女は、ウェストコーストから久々に現われた個性的な新人アーティストとして、批評家の絶賛を浴び、なおかつ多くの音楽ファンの心を捕らえた。具体的に言うと、前述したチャックE・ワイスをモデルとしたデビュー・シングル“Chuck E's In Love”は、全米チャートで第4位まで上昇。そして『Rickie Lee Jones』も79年を代表するヒット・アルバムの一枚となり、リッキーに第22回グラミーの最優秀新人賞をもたらした。

 しかし、リッキー本人は、この成功を喜んでいなかった。そのことを物語るように、81年に発表された『Pirates』は、よりメランコリックな色合いが濃く、デビュー作と異なる性格のアルバムだった。リッキーはみずからの苦悩を糧として、聴き手の胸を深くえぐるような美しい作品を生み出したのだ。このアプローチは危険な賭けであったが、『Pirates』は見事ゴールド・ディスクに輝いた。だが、彼女は名声のプレッシャーから逃れるべく、ニューヨーク、そしてパリへと移住する。この間、彼女はニューヨーク録音のミニ・アルバム『Girl At Her Volcano』をリリースしたが、日常生活においてはアルコールやドラッグに救いを求めていたというから、突然の成功はかなり大きなプレッシャーだったようだ。 

 84年、リッキーはパリ在籍中に出会ったフランス人ミュージシャンと共にLAに帰郷。そして同年秋に『The Magazine』をリリースし、年末からツアーも開始した。ところが、このツアー終了後、彼女はポップ・シーンの表舞台から姿を消してしまう。それは、アーティストとしての活動よりも、夫との家庭生活、とりわけ彼との間に誕生した娘の子育てを優先させるためだった。

カテゴリ : ピープルツリー

掲載: 2004年01月29日 14:00

更新: 2004年01月29日 18:40

ソース: 『bounce』 250号(2003/12/25)

文/渡辺 亨

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