HOW THE WEST WAS WON
ウェストサイド・コネクションは西海岸の炎を燃やし続ける
いまのゲームには俺たちが必要だ
アイス・キューブ、WC、マック・10の3人によるウェストサイド・コネクションがアルバム『Bow Down』をリリースしたのは96年。時は東西抗争でシーン全体が揺れていた時である。そんな時にリリースされたからこそ、このユニットは西海岸の威信をかけたものであったと解釈されるだろう。確かにアイス・キューブも「当時あらゆる方面から西海岸は攻撃されていながらも、俺たちを援護する奴らがまったくいなかった」と話すが、プロジェクト自体のスタートは93年だったのだという。それがWC&ザ・マッド・サークルの“West Up!”や、マック10の“Westside Slaughtershouse”などで徐々に形となり、96年のウェストサイド・コネクションへと繋がっていく。そしてアルバム前のシングル“Bow Down”はチャートの頂点へ駆け上がり、アルバムも爆発的なセールスを記録した。
「俺たちはそれぞれ違うキャンプから出てきたし、ファースト・アルバムを作る前は、ウェストサイド・コネクションがあれほど影響力のあるグループになるとは想像もしなかった。自分たちが聴きたいアルバムを作って、胸に溜め込んだものをすべて吐き出したい、そう思って作っていただけさ。あんなに大勢の連中が同じようなことを考えていたとも思っていなかったし、ラップ・ゲームに対する期待の大きさを実感したのさ。俺たちには力があると思ったし、だからこそ焦って次作を作ることはできなかった。みんなが俺たちを必要としていると感じたときにカムバックする必要があったんだ。いまのラップ・ゲームにはウェストサイド・コネクションのアルバムが必要だと思ったのさ」(WC)。
7年の時を経て、ふたたび彼らは結束を果たした。だが、現在は東西の大きな対立もなく、96年当時と今ではシーンも大きく変化してきている。なぜ、ウェストサイド・コネクションとしての結束がいま必要とされているのか。その真意は、単純に彼らが組むという興奮以上に、ファンにとって大きな関心のひとつであろう。
「昔は、俺が(ラップを)始めた頃は自分のスタイル、自分のフレイヴァーを確立することが重要だった。今はコピー・キャットたちのビジネスになっちまった。シーン自体はデカくなってる。いい方向に向かってる部分もあるけど、悪い方向に向かってるところもある。カネ目当てだけでこのゲームに入ってきた連中も大勢いる。心から楽しんでるわけでもなく、メソッドもスキルもない連中がさ。だから俺たちはそういう連中に対してラップしてるのさ」(キューブ)。
「例えば、俺たちがレコードを出そうが出すまいが、ドクター・ドレーが誰かをプロデュースしているだけで西海岸は生き続けていることになるのさ。もちろんドレーだけじゃないぜ。俺たち西海岸の人間がそれぞれ何かをしてれば、それだけで西海岸の炎は燃え続けているんだ。NWAのファミリー・トゥリーは成長し続けてるってことさ。もし西海岸のヒップホップがなかったら、50セントもエミネムも現在のようにはなりえなかった。だよな? 奴らはNWAの伝統を引き継いでいるわけだからさ。でも人はそういうふうには見ない。ジャ・ルールやファボラスたちはみんなLAでプロモ・クリップ撮影をしてるのに、人は西海岸に対するプロップスを忘れちまってる。気付かれないだけで、西海岸は常にこのヒップホップ・シーンで重要な位置についている。それが事実なのさ」(WC)。
「俺たちからスタイルを盗んで、自分ら流にアレンジしてやってるだけのくせに、俺たちに対するリスペクトがないのさ!」(キューブ)。
いつの時代もヒップホップ発祥の地であるNYがまず脚光を浴びる状況に変化はない。アイス・キューブは西海岸のレーベルの力不足を認めながらも、「過酷な道しか俺たちには与えられないのさ。すべての音楽はいまでもNYから発信されていると言ってもいい。雑誌、放送局、レーベルの多く、プロモーターたちはNYを拠点にしているわけだから。ヒップホップはNYから発信されてるわけさ」と話す。