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特集

日本ロック界における〈KING〉の軌跡(2)

愛しあってるかい?

 不運に意気消沈しつつも清志郎は必死でメンバーを探し、70年代末から新たなラインナップ──忌野清志郎(ヴォーカル)、仲井戸麗市(ギター)、林小改め小林和生(ベース)、新井田耕造(ドラムス)、G2(キーボード)──で活動再開したとき、RCサクセションというバンドのポテンシャルは最大限に発揮された。いまも彼らを語るときには欠かせないパフォーマンスの数々、例えば清志郎がオーティス・レディングのライヴ映像からヒントを得たという、曲の合間の〈愛しあってるかい?〉というコール&レスポンスや、知り合いからもらった化粧品で遊んたのが始まりだったというド派手な化粧や衣装、あるいはホーン・セクションとの絡みなど、一度観たら忘れられないものばかりだった。非日常的な空間と祝祭的なカタルシスを、彼らはふんだんに提供してくれたのだ。そして、当時のことでそれ以上に思い出すのは、ライヴで演奏するのがレコーディングしていない曲ばかりだったのに、一度ライヴで聴いたら憶えさせてしまう、見事な説得力。それが可能となっていたのも、彼らがこの時点でRCサクセションの音楽を、ほぼ完成させていたからだ。彼らがライヴ・バンドとして破竹の勢いで人気を高めていったのは、カタルシスを常に提供できる安定した演奏があったから、というのも大きな要因である。不遇の時代を経て、完璧なバンドをめざしてメンバーを集めたのだから当然なのだろうが、彼らはそんなことをおくびにも出さず、むしろ飄々と未完成な大人を演じていた。実際、バンドマンしかやってこなかった清志郎は、ある面ではそうだったのだろう。そこが80年代初頭の、モラトリアムな時代とシンクロした。難解なことも簡潔に表現することがスマートであった時代に、簡潔な言い回しで(そのつもりはなくても)人を煙に巻く、あるいは面倒臭いことは応えない、といった清志郎の態度は、バンドを離れたところでもカリスマ的な人気を集めるようになっていた。

 いまで言う〈サブ・カルチャー〉の端緒とも言える「ビックリハウス」「宝島」といった雑誌もRCサクセションを熱心に取り上げた。また、それらの雑誌と交流のあったコピーライターの糸井重里や、CMディレクターの川崎徹といった人たちとも親交を持ったり、評論家の吉本隆明がRCサクセションについて言及するようになった。RCサクセションはパンク/ニューウェイヴと同列に捉えられることもあったが、60年代のロックやリズム&ブルースをベースにした演奏は、団塊の世代にも馴染みやすく、歌詞の醸し出す価値観も同様に理解しやすいものであったし、その普遍性も彼らの魅力であった。当時のサブ・カルチャーの最大公約数として、RCサクセションとYMOは受け止められていたように思うのだが、YMOも新規なサウンドでありながら幅広い層に伝わる普遍性を持っている。清志郎が坂本龍一と共演したのも、これから間もなくのことだ。さまざまなことがいっぺんに押し寄せていたようなこの時期、RCサクセションは年100本ものツアーをこなし、クリスマス・イヴには日本武道館でやるのが恒例となっていた。

 82年、ようやく5人編成に安定した彼らが、普段からよく使っていた練習スタジオで録った作品『BLUE』が、私は好きだ。ライヴで演奏しているのと同じような音にしたかったそうだが、〈音が悪い〉と評判は散々だった。しかし、ライヴで鍛え上げた強靱でしなやかな演奏力と、バンドの勢いを反映した楽曲の持つエネルギーが丸ごと詰まっているようで、彼らが伝えたかったものがわかる気がする。3人編成のころから、自分たち以外の演奏で録音されたり、不本意な仕上がりを経験してきた清志郎たちが、ようやく自分の求める音で録音するのだと、意気揚々スタジオに入ったことを想像させる、衝動に溢れた作品なのである。

 このあとも彼らは〈KING OF LIVE〉として活動していくのだが、レコード会社移籍やら独立事務所設立といった事務的な変化が続いたこともあって、得意の衝動を持続するのは難しかったようだ。清志郎や仲井戸麗市のソロ制作などが行われ、活動の幅を広げているように見えたものの、バンドとしては散漫な印象だったのは否めない。久々に清志郎が初期衝動を燃え上がらせたのは、反核を巡りレコード会社と対立した『COVERS』(88年)だったが、そのあたりからメンバー間に軋みが生まれたらしい。90年には新井田耕造とG2が脱退、残った3人で制作したアルバム『Baby a Go Go』を発表した90年の暮れに行われた武道館コンサートを最後に、活動休止を宣言した。

▼RCサクセションの入門編としてオススメのベスト盤を紹介。


『Best of The Rc Succession 1981-1990』(東芝EMI)

カテゴリ : ピープルツリー

掲載: 2003年12月18日 13:00

更新: 2003年12月22日 19:59

ソース: 『bounce』 249号(2003/11/25)

文/今井 智子

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