日本ロック界における〈KING〉の軌跡
RCサクセションとその時代
久しぶりにソロ名義でのアルバム『KING』を発表した忌野清志郎だが、訊けば〈ソロ〉ということにこだわりはないと言う。彼のなかでは、いつも自分は〈バンドマン〉なのだ、と。そういえば「職業欄には〈バンドマン〉と書く」とも、かつて彼は言っていた。それらの言葉には、曲も書くし歌ってもいるし楽器も演奏するが、それもバンドの一員だから、という自負を感じさせる。ホントは彼一流のジョークだったりするのかも知れないが、そうした簡潔さが彼なのだ。平たく言えば大雑把とも言えるが、それができるのは、雑多な情報を統合して自分のなかで一般化する把握力がある、ということでもある。そして、言葉を、言葉以上のものにしてしまう〈声〉と一体になったときに生まれる、とてつもない説得力。にも関わらず、清志郎は〈バンドマン〉なのである。
70年に発表されたRCサクセションの記念すべきデビュー・シングル“宝くじは買わない”。もちろん、廃盤のうえ超希少盤!
RCサクセションが活動を休止してすでに13年ほどになるが、〈バンドマン〉忌野清志郎の活動歴を語るうえで大きな比重を占めるのは、言うまでもなくRCサクセション時代である。それも、5人編成となって成功を収めた80年代だけでなく、そこに至るまでの10年あまりの時間も重要であることは変わりがない。むしろそのころの、純粋でおおらかな曲に彼の本質が潜んでいる気さえする。
ある日作成しよう!
60年代半ば、清志郎はヴェンチャーズに触発されてエレキ・ギターに憧れ(実際に手に入れたのはガット・ギターではあったが)、友人とバンドを組んだ……というあたりは当時のバンド事情そのままで、同じようなことをしていた若者がゴマンといたはずである。その最初のバンド、The Cloverが、RCサクセションの母体だ。RCサクセションというバンド名の由来は、前述のThe Cloverから発展した〈The Remainders of the Clover Succession〉を縮めたものだが、それよりも〈ある日作成しよう〉をもじった、という俗説のほうが私は好きである。当時は、清志郎の他、林小和生(ベース)、破廉ケンチ(ギター)によるトリオ編成。このメンバーでの活動は70年代半ばまで続くが、この時代のアルバム2作『初期のRC・サクセション』『楽しい夕に』は、まさに初期の初々しさを詰め込んだ曲が並ぶ名作。1作目の表題『初期のRC・サクセション』は、当時の洋楽シングル集などの表題に多用されていた〈Early~〉の翻訳で、それをみずからの表題にしたところに、彼らの音楽に対する、また作品に対する愛情とジョークが込められている。そしてそれらの作品では、フォーク・ソングよりもブルースやソウル・ミュージックに傾倒していた、当時の彼らを垣間見せてもいる。
清志郎が、のちの大ヒット曲“トランジスタ・ラジオ”の主人公のように、屋上でトランジスタ・ラジオを聴くような高校生活を送っていたことは想像に難くない。まさに〈ベイ・エリアからリバプールから〉やってくる音楽に興奮していたのだろう。そんな曲を自分でも書いちゃえ!という初期衝動を、清志郎が今も失っていないことは驚きに値するが、逆に言えば、彼が初期衝動を伝える術を持っているからできるのである。やみくもに自分の思いを吐き散らしたからといって、聴いている人たちに伝わるものじゃない。それはスキルよりも天賦の才というものだろう。ともあれ、高校生でレコード・デビューというラッキーなスタートを切りながら、自分たちの書いた歌のように、大人の都合に翻弄されて自信と野心が空回り、自分たちだけの世界に引っ込んでしまわざるを得なかった彼らは、アルバム2作を発表後、数年の沈黙を余儀なくされる。
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