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特集

2Pac

カテゴリ : ピープルツリー

掲載: 2003年10月16日 19:00

ソース: 『bounce』 247号(2003/9/25)

文/出嶌 孝次,小林 雅明

ある者はジーザスを重ね、ヒューイ・ニュートンを重ね、またある者はトニー・モンタナを重ねる。不世出のラッパーにして、もはやそれ以上の存在でさえある2パック。彼が夥しい血煙に彩られたわずか25年の生涯を終えてから、すでに7年が経った。にもかかわらず、毎年のように〈新作〉がリリースされ続けているというこの異様な事態は何なのだろうか? 2パックの何がいまなお人々を惹き付けてやまないのだろう? その凄絶な歩みをいま一度振り返ってみよう

READY TO DIE : 1971-1996


非業の死を以てその名を永遠にしたラッパー、2パックことトゥパック・アマル・シャクール。彼が死んだ96年9月13日から、およそ7年の時が経った。征服軍に反乱を起こして処刑されたインカ帝国の末裔から取られた名前に相応しく、その生涯はもちろんミスター・ナイス・ガイのそれではなかったし、単なるピカレスクでもなかった。

 パックは71年6月16日、NYのハーレム生まれ。母親のアフェニ・シャクールはかのブラック・パンサー党員であり、200以上もの罪状によって逮捕・投獄された経験もある闘士だった。とはいえ、プロジェクト(低所得者居住地域)での暮らしでパック少年が日常的に目にしていたのは、母や養父がコカイン漬けになっている様子だったという。危険分子としてマークされていたこともあり、生活は常に厳しかったそうだ。そんななかでも、彼の〈表現〉への目覚めは早かった。幼い頃から詩を綴っていたパックを見て、アフェニはハーレムの劇団に入団させる。後に花開く演技の才能はここで培われた。

 86年、シャクール一家はボルティモアに移り、ボルティモア芸術学校に入学して演劇とバレエを学びはじめたパックはこの頃からMCニューヨークという名前でラップを始めている。2年後、さらにカリフォルニアのマリン・シティへと単身移った彼は、ドラッグ売買に手を染めながら、現在も活躍中のレイ・ラヴらとストリクトリー・ドープなるグループを結成。そのレコーディングのため、デジタル・アンダーグラウンド(以下DU)にプロデュースを依頼したのだが、ビートが出来上がると5分でリリックを書き上げ、凄まじい勢いで言葉を吐き出すパックの資質にDUのメンバーたちは舌を巻いたという(なお、そのセッションの音源は『The Lost Tapes』などの非公式編集盤で聴ける)。程なくしてパックはDUに引き抜かれるが、誰もにその才能を認められながら、ローディー兼ダンサーに甘んじることとなる。

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