Steve Winwood(2)
天才少年ロンドンに現る!
1948年の5月12日、イングランドのバーミンガムで生まれたウィンウッドが最初に在籍したのが、スペンサー・デイヴィス・グループ。彼は63年のバンド結成時から67年まで、スペンサー・デイヴィス・グループのヴォーカリスト、及びピアノ/オルガン奏者として活動していくのだが、当時の曲を聴くと、結成時にウィンウッドが15歳だったとはとても信じられないくらいすでに黒すぎる喉を披露している。当時から天才少年と呼ばれていたそうだが、こんなに黒い声を持っている白人のシンガーというのを、確かに僕はほかに知らない。スモール・フェイセズ~ハンブル・パイのスティーヴ・マリオットや、ゼムのヴァン・モリソンもかなり黒い声の持ち主だが、ウィンウッドがまだ10代だったことを考えると、彼の早熟ぶりというのは驚くべきことだ。加えて、“I'm A Man”や“Gimme Some Lovin'”といったグループのヒット曲は、ウィンウッドのペンによるナンバー。スペンサー・デイヴィス・グループは、同じ時期のローリング・ストーンズやアニマルズと同じようにリズム&ブルース色の強いバンドだが、当時のどのグループよりヒップな感覚を秘めていたようにも思う。
ちなみに、ウィンウッドの父親はローカル・バンドでサックスを演奏していた人で、ウィンウッドが早くから音楽に親しんだのも父親からの影響が大きかったという。とくに幼少のころはジャズに熱中し、オスカー・ピーターソンやチャールズ・ミンガスに触発されたそうだ。その後、ウィンウッドはレイ・チャールズやマディ・ウォーターズなどのリズム&ブルースやブルースに目覚め、9歳にして父親のバンドで演奏をするようになる。こうしたジャズと黒人音楽を基盤とした幼少の時期の体験が、スペンサー・デイヴィス・グループを出発点とするウィンウッドのキャリアの礎になっていった、ということは想像に難くない。
ウィンウッドの音楽の世界がさらに広がっていったのが、67年から74年まで活動をしたトラフィックの時代のことだった。ギターのデイヴ・メイソン、ドラムスのジム・キャパルディ、サックスとフルートのクリス・ウッド。この計4人で結成されたトラフィックは、メンバー・チェンジを繰り返しながら、ロックが特別な音楽だった時代に大きくはばたいていく。サイケデリックあり、アーシーなスワンプ調あり、ジャズ風のインプロヴィゼイションを聴かせたこともあり……トラフィックは、アルバムごとにその旺盛な冒険精神をポップな楽曲に潜ませていくことになる。
そこで注目すべきなのは、この時点で、すでにウィンウッドのなかにワールド・ミュージック的な視点に基づく音楽作りがなされていたことだろう。70年代に入ってからのトラフィックには、アラバマ州のマッスル・ショールズ・スタジオのリズム・セクションであるロジャー・ホーキンス(ドラムス)とデヴィッド・フッド(ベース)が加入。より国境を超えた指向性を高めるのと同時に、73年のアルバム『Shoot Out At The Fantasy Factory』ではジャマイカでのレコーディングを敢行。また、同じ年にウィンウッドは、2人のジャマイカ人メンバーとサード・ワールドという別ユニットを結成し、アルバム『Aiye-Keta』をリリースしている。ジャマイカ、アフロ、ジャズなどの要素が渾然一体となったセッション・アルバムだ。
一方で、トラフィックが一時活動を中断した69年には、クリームのエリック・クラプトン、ジンジャー・ベイカーとともに、ブラインド・フェイスを結成してアルバムをリリース。先日、日本で紙ジャケでリイシューされたアル・クーパーの『Super Session』にも言えることだが、この時代のスティーヴ・ウィンウッドも、さまざまなメンバーとセッションを重ねることで、ロックという表現の枠を大きく広げていったのだった。
そういう時代のトラフィックの集大成と思えるのが、前述の『Shoot Out At The Fantasy Factory』のツアーでの模様を収めたライヴ盤『On The Road』(73年)にちがいない。当時はアナログの2枚組でリリースされた6つの収録曲は、いちばん短い曲でも7分4秒という長さ。メンバー間のふくよかな演奏のなかから、スケールの大きなロックが生み出されていった点がよく理解できるアルバムになっている。
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