Mondo Grosso(3)
ポップ・プロデューサーとしての活躍
大沢がMONDO GROSSOとしてふたたび表舞台に立ったのは、翌97年。アルバム『CLOSER』でのことだった。ここでの彼は、プロデューサーとして多くのシンガーと渡り合う。結果、完成したのはブラック・コンシャスなR&Bであり、緊張感とムードが交錯する好作品である。だが、この作品は第一期のMONDO GROSSOと比べて、なかなか熱気溢れる評価を持てなかった。歩み続ける大沢に対して、リスナーがついていけなかった──恐らくそういったジャッジではなかったか。だが、美麗なメロディー~シンガーとの絡みに腐心したこと(『BORN FREE』でも若干見られるが)は、以後始まるポップ・フィールドでの成功に活かされている。ここで音楽的な失敗を犯さなかったこと。それは後に大きな意味を持っていたのだ。
『CLOSER』が世に放たれてしばらくすると、彼の社会的位置付けは大きく変容していく。つまり、俗に〈1,000枚市場〉などと揶揄された洋楽~クラブ系マーケット、その枠を大きく飛び越えたポップ・プロデューサーとしての評価である。この時期、前後から行っていたMONDAY満ちる(95~99年)、UA(96年)、Chara(97年)、りょう(97~98年)のような女性ヴォーカリストとの共同作業が増えていったこと。つまりその視線は、クラブ・カルチャーが生み出す〈共同体的な物語性〉を外れ、ポップスとの境界へと注がれていったのだ。
そういう路線が大きな結実を見たのが、birdのファースト・アルバム『bird』(99年)だろう。この作品が日本国内で売り上げた枚数は実に80万枚。驚異的な数字である。もちろん過度にブラック・コンシャスではなく、日本人の琴線を擽る彼女の声質も大きかった。だが、プロデューサーとしてそのマーケティングにまで関わった大沢の名声は、この80万枚という巨大な数字によって決定的なモノになった。
「邦楽プロデューサーとして社会的な認知を得たいま、格好つける必要がなければ、飾りものとかもいらなくなったのね」(「Barfout!」 99年3月号より)。
「人の心も音楽もファッションも経済も芸術もすべては移ろっていくんですよ」(「Barfout!」2001年9月号より)。
上記はbirdのプロデュースと前後して、多方面へと触手を伸ばした時期の大沢の発言である。彼ならではの音楽スタイルに対するドラスティックさが象徴された発言であり、度胸の据わった〈FEARLESS〉ぶりがここにはある。
彼は自分のことを「完全な音楽的多重人格者」だと言う(「Barfout!」2001年9月号より)。プロデューサーとして常に俯瞰した視線を持ちながら、入りたい場所に入っていく。仮にそれが片方の身を置いているクラブ・カルチャーから誤解を受けたとしても構わない。〈わかってやっているハイプと無自覚なハイプは違う〉──と当時の彼は考えていたようだが、『CLOSER』以後のポップ方面への強化はまさにそんなスタンスで図られてきたのではないか。
『MG4』(2000年)から始まるプロジェクトは否の打ちどころがないほどに完成度の高いポップ性を備えているが、この強度は〈FEARLESS〉な大沢以外には到底出せない。そのビハインドには2つの理由があるのではないか。ひとつはバジェットを保証する音楽的実効。すなわちそれは、birdの80万枚に象徴される圧倒的実績である。もうひとつはプロデューサーとして幅広いリスナーをも唸らせるメロディー・センスと、継続的に培ってきたDJ的な着眼だ。
最新アルバム『NEXT WAVE』では、BoA、kj(Dragon Ash)、UAといったポップ・アクトから、ケリス、アーマンド・ヴァン・ヘルデン、ハリー・ロメロといったクラブ系のゲストが混在している。もはやそれ自体驚くべきことではないし、それが彼のすべてではないということも、その変遷を辿ればわかる。〈次の波がやってきた。そいつをモノにするとかじゃないんだ、ただ乗るだけなのさ〉──『NEXT WAVE』ではこんな文句が登場する。乗るだけなのか。果たして、モノにするのか。それ自体に価値を求めるのではなく、とにかく乗っていく。大沢伸一というプロデューサーの強さは、恐らくここにある。それは今後も揺るがないだろう。
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