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YMO(3)

カテゴリ : ピープルツリー

掲載: 2003年03月13日 15:00

更新: 2003年03月13日 18:39

ソース: 『bounce』 240号(2003/2/25)

文/田中 雄二

3人が揃わなくてもYMO

 80年――YMOブームがピークとなった時期に、メンバー間でさまざまな衝突があったことを、坂本は先ごろリイシューされたYMOのCD、そのブックレットのインタヴューで告白している。これが第2期YMO誕生の重要なファクターである。81年初春に予定されていた3人の共作計画は、坂本の〈意識的サボタージュ〉によって反故にされた。〈MC-4〉というループ可能な(譜面を必要としない)シーケンサーの登場、そして〈坂本の不在〉という状況下で、細野と高橋は“キュー”という、YMOの道筋を指し示すような曲を探り当てた。まさに探り当てたと言うのが相応しい、誕生秘話がこの曲にはある。そして細野は以降、〈3人が揃わなくてもYMO〉という考え方で『BGM』の制作を続行する。こうして、ビートルズ〈ホワイト・アルバム〉のような実験精神がそこに宿ることになった。当時、細野はデヴィッド・カニンガムやマイケル・ナイマンなど英国のミニマル音楽に傾倒しており、あのビートルズの時代ですら「アメリカ音楽一辺倒だった」細野にとって、変節の時期が訪れていた。ミスター(アンディー)・パートリッジ『Take Away』に肉薄する、ロック耳による実験音楽の最高峰がこうして生まれた。そして誰よりもロンドンの同時代音楽に共感していた高橋は、『BGM』でヨーロピアンなフレイヴァーの香り付け役を見事に果たした。

 1月録音開始、3月リリースという過密スケジュールは、むしろ細野側の意向だったという。そんな〈プラトー状態〉のなかで『BGM』リリース日に録音が開始されたのが、次作『テクノデリック』である。工場のノイズなどを採り入れた世界初の本格的サンプリング・アルバム。彼らはこれを、メモリー継ぎ接ぎだらけの自家製サンプラーだけで作った。ここから坂本が精神的に復帰してくるが、坂本はこのとき、学生時代にピエール・シェフェールを真似てミュージック・コンクレートを作っていたときの記憶が呼び覚まされたという。“コンピューター・ゲーム”“ライディーン”のSEを担当した自称〈元祖音響派〉の細野は、バリ島のケチャやガムランのリズムを持ち込んだ。高橋もまたサンプラーの導入で、他の2人のように初めて演奏から解放され、“新舞踏”で灯油缶の音をスネアに使った。こうして『テクノデリック』は、世界初にして孤高のサンプリング・アルバムに結実する。

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