YMO(2)
細野のアイデアに熱狂した坂本と高橋
78年、細野のアルバム『はらいそ』の録音で、初めて3人が揃った。ここである種の啓示を感じた細野は2人を自宅に招き、グループ結成のアイデアを持ちかける。〈マーティン・デニーの曲をディスコでカヴァーして、米国で400万枚売る〉という、“ファイアークラッカー”の草案である。実はこれ、当初はティン・パン・アレー人脈で想定されたものだったが、メンバーに難色を示され実現しなかった経緯があった。リズムボックスがテンポを強制する同期演奏のスタイルは、ミュージシャンの自律を奪う。だが坂本、高橋の2人だけがこのアイデアに熱狂した。演奏者としても優れていた2人だが、機械に演奏させることで脳内のグルーヴを忠実に再現できる、分析的視点が共通していた。「コンピュータで音楽を作る時代になると、ミュージシャンのアイデンティティーが崩壊するだろう」という当時の高橋のコメントには、それを自虐的に楽しんでいるフシがある。YMOがのちに独自の進化を遂げていく、エキセントリックなコンピュータ音楽の適性を窺わせるエピソードである。
今日、デジタル音楽普及の始祖と呼ばれるYMOだが、実は最初のプランではコンピュータ使用を考えていなかった。そのころ、坂本龍一は初のアルバム『千のナイフ』を制作中であり、冨田勲の弟子筋のプログラマー、松武秀樹とそこで共同作業をしていた。スコアメイカー自身が演奏をしないのは、現代音楽では珍しくない。シュトックハウゼンのように演奏者を介在させないことで、作曲コンセプトの理想を実践してきた電子音楽の歴史もある。しかし、当時コンピュータはダダイストや研究者の独占物であり、ポピュラー音楽にコンピュータを使う坂本の手法は、スタジオ状況の中でも異色であった。この坂本の手法を、そのまま採用したのがYMOという見方が、ロック史的に正しいだろう。
細野がYMO結成時に魅了されていたものに、クラフトワーク、ジョルジオ・モロダーのサウンドがある。当時の細野は、TVゲームのサウンドの理想をここに見出していた。坂本の録音メソッドがここに導入され、初期YMOのスタイルがほぼ確立されたと言っていい。こうして生まれたのがデビュー作『イエロー・マジック・オーケストラ』(78年)である。しかし、細野は当時を振り返り、この中で唯一“中国女”のミニマルな仕上がりこそ青写真に近いものだったと告白している。
実は、この時期の唯一の未発表曲に“InDo”(Pre YMO名義で2000年にリリース)がある。初期YMOの曲の多くが、転調や変拍子を多用するフュージョン色が強かったのに対し、これは唯一のワンコードによる反復音楽である。坂本がスタジオ不在時に、細野と高橋が遊びで作ったというこの曲がお蔵入りになった理由を、「『BGM』(81年)でやろうとしたことに近い。けれど方法論がなかった」と高橋は説明している。YMOが当時使っていたローランド社製のコンピュータ〈MC-8〉は黎明期のシーケンサーで、テンキー入力を前提とし、いまのように鍵盤入力ができなかった。81年に後継機〈MC-4〉が登場したことで初めて鍵盤入力やループが可能になる。これが導入された『BGM』から、YMOが突然変異的にミニマルに接近し始めるのは、デヴァイスの影響もあるだろう。つまりMC-8時代には、すべてがいったん譜面化のプロセスを経るために、おのずと〈音楽〉の様相を帯びることになる。この譜面の必要性のために、初期YMOで細野は、スコアメイクのかなりの部分を坂本に託し、そうしてゴージャスな初期YMOのサウンドが生まれた。そして“テクノポリス”“ライディーン”というヒット曲が生まれ、やがてYMO人気は一種の社会現象までになっていく。