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YMO

カテゴリ : ピープルツリー

掲載: 2003年03月13日 15:00

更新: 2003年03月13日 18:39

ソース: 『bounce』 240号(2003/2/25)

文/田中 雄二

細野が感じた<新しい音楽の予感>


70年代末期のフュージョンの全盛は、ロックの飽和と閉塞状態と裏表の関係にあった。はっぴいえんど、ティン・パン・アレーを率い、先端を走っていた細野晴臣にとっても状況は同じだった。77年当時、細野が音楽雑誌に発表した年間ベストテンの記事を見ると、あきらかに同時代音楽への関心が薄れていたことがわかる。そんな細野を魅了したのがTVゲームのサウンドだった。のちにYMOのデビュー作で採り上げる“コンピューター・ゲーム”の原型だ。しかし、多くのそれまでの細野支持者は、当時そのサウンドに当惑し、これを非音楽=企画モノとして片づけた。だが細野はあのモビールのような無機的な音の組み合わせに、新しい音楽の予感を感じていた。ブリープ・テクノという流れがヨーロッパで誕生する、10年以上も前の話だ。

 東京芸術大学の大学院を出たばかりだった坂本龍一は、在学中からよすがで始めていたスタジオ・ミュージシャンの仕事で注目されていた。といっても、それはジャズ/フュージョンの狭い世界の話。本人は阿部薫、土取利行らとのセッションを本領と考え、みずからをフリー・ミュージック派と定義していた。芸大時代はドイツ偏重のアカデミズムへの反発から、〈ダダ〉への共感が強かったという。東京芸大は冨田勲がムーグを導入する2年前に、日本で最初にシンセサイザーを輸入していた機関。武満徹、湯浅譲二らのテープ音楽に感銘を受けていた坂本は、ここでいくつかの電子音楽の習作に取り組んでいた。「すでに『千のナイフ』(78年)に近い音色だった」と坂本が述懐するこの時期のテープ作品は、のちに運命的に細野の耳に届くことになる。

 サディスティックスにいた高橋幸宏は、ミカ・バンド時代から技巧的なプレイで密かにファンを集めていた。パワフルではないが几帳面なドラミングは、スタックスのアル・ジャクソンを彷彿させた。タムを多用せず、スネア、バスドラのみでキープする正確無比なスタイルは、細野のディスコ・バンド結成の理想に叶ったものだった。

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