松任谷由実(2)
多岐に渡る活躍で、真のスーパーレディーに
さて、ふと気がつくと80年代。行動半径をぐっと広げ、影響力も大きくなっていったユーミンは、その活動も多岐に渡る。“守ってあげたい”が映画主題歌として大ヒット、続くアルバム『昨晩お会いしましょう』(81年)を発表したこの時期あたりから女性ファンが急増し、彼女の描く恋愛模様に既知感を得て、みずからの体験と重ね合わせることが常識化する(それらのファンをここでは仮に、ユーミンの〈あるある会員〉と称しておこう)。モロッコやパリ~ダカール・ラリー観戦、そして南米アマゾンなどを、その土地のパワーに呼び寄せられるかのように旅したのも80年代。そしてその印象は、少しづつ作品に跳ね返ることに。さらにみずからパーソナリティーを務めるFM番組がスタートし、リスナ-との交歓も始まる。呉田軽穂名義で松田聖子に楽曲提供し、“赤いスイートピー”や“渚のバルコニー”などの代表作も産み出して、プロの作家としてのブレのなさも印象づけた。そんな対外的な動きと同時に、さらに自分の思うポップ観を惜しげもなく打ち出すようになったのだからパワフルな人だ。ピンク・フロイド御用達のデザイン・チーム、ヒプノシスとのコラボレーションや、ロンドンに3か月滞在して制作した映像作品「コンパートメント」、それまでの日本のポップスではあり得なかった〈輪廻転生〉をテーマにしたアルバム『REINCARNATION』(83年)でラヴソングの概念を変えたかと思うと、ラグビ-選手が主人公の『NO SIDE』(84年)では体育会系の男の子をカッコよく仕立てた。さらにパリ~ダカール・ラリーを観に行った際に砂漠のなかで感じた〈人生の短さ、果敢なさ〉は、『ダイアモンドダストが消えぬまに』(87年)にも影響を与えたのである。