松任谷由実
18歳でデビューを果たした〈天才少女〉は、その後、日本の音楽シーンを代表する〈スーパーレディー〉となった。いつの時代も一歩先を行き、時代が追いついてくれば、軽やかな足取りでまた引き離す。それは、デビューから30年の歳月が流れたいまでも……。
少し前、ユーミンにお会いした。〈30周年〉ぽい話も少しした。そのとき、彼女が言っていたことで印象的だったのは、「〈区切り〉とかっていうことより、人間が生きていくこと自体〈グラデーション〉」なのだということ。なるほどなぁと思った。だから、この原稿のなかにNGワードを設けて、そして書き始めることにしようと思う。その言葉とは……〈節目〉!
行動力に満ちていた音楽性
実際、彼女──荒井由実のデビューはグラデーションのかかったものであった。作曲家としてのデビューは69年。高校入学の年、“愛は突然に…”という楽曲でである(加橋かつみへの提供曲)。しかし、〈シンガー・ソングライター〉としての出発点は、72年、大学入学の年に発表したデビュー・シングル“返事はいらない”で、そこから数えて丸30年にあたるのが、つまり2002年ということになる。でも、一般的に彼女の名前が知られはじめたのは、翌73年のファースト・アルバム『ひこうき雲』がリリースされてからだ。教会音楽の専門レーベル、アルヒーフのジャケットを模したそれは、ポップ・アーティストの作品集というより、作曲家の作品集というイメージ。実際、デビューしたころに彼女がめざしたのは、作曲に比重を置いた活動であった。このアルバムは、ラジオの深夜放送などがキッカケとなり、そして、そこに収められたすべての楽曲の新人らしからぬレベルの高さもあり、口コミで評判が広まっていった。とはいえ、俗に言う〈ブレイクを果たした〉アルバムは、3枚目の『COBALT HOUR』(75年)。周囲のフォーク出身シンガーたちが、擦れた畳の匂いを消せずにいるなか、ユーミンの音楽性は当時からフローリングの輝き、そして、好きな場所に出かけていく行動力に満ちていた。さらにシングル“ルージュの伝言”“あの日にかえりたい”のヒットもあって、ここで最初のユーミン・ブ-ムが起こる。そしてまもなく、松任谷正隆と出会い、結婚。創作の起点となる自分たちの事務所、雲母社の創設もこの時期だ。
松任谷由実として走り始めた70年代後半は、ステ-ジでも独自のスタンスを見せはじめた。いま現在も取り組んでいる〈SHANGRILA〉へと繋がる〈魅せる〉ライヴ編成は、このころすでに始まっていた。葉山でのリゾート・コンサートを78年にスタートさせ、翌年のツアーではステージに本物の象が登場した。ともかく観ないことには始まらない──それが彼女のコンサートだった。
レコーディングにおいては、周囲を気にせずに自分がやりたい音楽を突き詰めた。とくに『紅雀』(78年)や『悲しいほどお天気』(79年)といったアルバムでは、自分が好むサウンド・スタイルの迷いなき打ち出し方や、歌詞に採り込んだ色彩感、心の微妙な滲み方が与える感動など、その後のシンガー・ソングライターたちに多大な影響を与える作風となった。この時期の作品集は、彼女の曲作りの礎となっている気がする。