The City of Musical Love フィラデルフィア……音楽に愛された街(2)
〈Illadelph〉の夜明け
それでは現在のネオ・フィリーへと繋がる流れが見えてきたのは誰のどの作品からだったのだろうか。となったときに、まず思い浮かぶのがルーツの96年作『Illadelph Halflife』である。94年にゲフィンからリリースした『Do You Want More?!!!??!』で生演奏によるヒップホップ・バンドとして注目を集めたルーツは、当初から録音場所に70年代フィリー・ソウルの本拠地であるシグマ・サウンド・スタジオを使用。ここで録音することによって、自分たちはインストゥルメントに重きを置くフィリーの伝統を継承しているんだぞ、ということをそれとなく匂わせ、しかもクエストラヴは“Distortion To Static”のイントロ部分でオージェイズの75年ヒット“Give The People What They Want”のイントロを真似たドラムを叩くなど、かの地をレプリゼントしていた。しかし、地元のレペゼンにとどまらず、彼らが進むべき道を明確にしはじめたのは、その2年後に放った『Illadelph Halflife』からのように思える。自分たちの住むフィラデルフィアを誇らしげに〈ヤバい街〉というニュアンスを込めて〈Illadelph〉と呼び、トレードマークの生演奏に加えて打ち込みにも挑戦した同作からは、新世代によるフィリー・サウンドを生み出していこう!とでもいった心意気が感じられたのである。
ちなみに、この『Illadelph Halflife』には、ディアンジェロやコモン、Q・ティップといった後にソウルクエリアンズを名乗る面々やラファエル・サディークなど、ニュー・クラシック・ソウル~ネオ・ソウルのキーパーソンがこぞって参加。ここらあたりからネオ・ソウルとフィリー・シーンの密な関係が囁かれ始めるが、そのことをより強く印象付けた作品が、ニュー・クラシック・ソウル・ブームの決定打となったエリカ・バドゥのデビュー作『Baduizm』(97年)だ。そう、ここでサウンド・メイキングの鍵を握っていた人物こそクエストラヴらルーツ一派、そしてジェイムズ・ポイザーといったフィリーのクリエイターだったのである。同年には、そのポイザーと相棒のヴィクター・デュプレーも参加したシルク130の『When The Funk Hits The Fun』でフィリーという街がクローズアップされ、マスターズ・アット・ワークによるニューヨリカン・ソウル・プロジェクトでは新旧フィリー勢の参加も話題となった。そして、その後、ケニー・ラティモアが『From The Soul Of Man』(98年)で、コモンが『Like Water For Chocolate』(2000年)でフィリーのミュージシャンといい関係を築いたことも追い風となり、かの地で生まれる深く・硬く・黒く・粘っこいビートや、生楽器のジャジー・メロウなサウンドがジワジワと注目を集めだす。
同時にフィリーではこの頃、〈okay player.〉というネームを掲げて音楽的な同志を呼び集めていたルーツ主宰の〈Black Lily〉という女性優先のオープン・マイク・イヴェントが盛んになり、ジャジーファットナスティーズをはじめとする女性アクトがステージを盛り上げていた。そして、こうした場所で行われていたポエトリー・リーディングも、生楽器によるライヴ演奏と共にフィリーのスタイルとして定着していくのである。
と、そんな新しいフィリーのシーンを99年の時点でまとめあげたのが、これまたルーツの『Things Fall Apart』だった。同作には、デビュー時からの付き合いとなるスコット・ストーチをはじめ、ジェイムズ・ポイザーやジャジー・ジェフ、ジル・スコット(作詞のみ)やアーシュラ・ラッカー、またデビュー前のイヴや、スクールズ・オブ・ソートにいたスクラッチなどフィリー出身のクリエイター&パフォーマーがこぞって参加し、しかもストリングスにはラリー・ゴールド率いるBSFM(もちろんMFSBの逆さ読み!)を起用。ブックレットには〈フィリー豆知識〉とでもいうような解説までも添えられ、その時点でのフィリーの〈いま〉を明らかにした。彼らがスタジオをシグマ・サウンドからラリー・ゴールド経営のザ・スタジオへと乗り換えるようになったのもこの頃だ。