SERGIO MENDES(2)
アメリカ、そしてA&Mとの出会い
リオデジャネイロの対岸の街ニテロイで生まれ育ったセルジオ・メンデスは、小さい頃からピアノを学び、10代の後半にリオでのボサノヴァの誕生を目の当たりにする。20歳の頃にはベッコ・ダス・ガハーファスと呼ばれる伝説のナイトクラブ・エリアで自身のピアノ・トリオを結成し、“Noa Noa”など自作のレパートリーを織り交ぜ夜な夜な熱いジャズ・サンバの演奏を繰り広げていた。1962年、ボサノヴァが世界に羽ばたくきっかけとなったあのニューヨークのカーネギー・ホールのステージでアントニオ・カルロス・ジョビンやジョアン・ジルベルトと共に出演し、オープニング・アクトを務めピアニストとして注目を集める。彼は、その時すでにアメリカでの成功を視野に入れ、自分の可能性を試すためにブラジルからアメリカへ移り住むことを考えていた。その後、西海岸での活動をスタートさせ、ピアノ・トリオにワンダ・サーのヴォーカルを立てた編成のブラジル'65でボサノヴァを演奏する。しかし、いくらその演奏が素晴らしくとも、まだ多くの人々の関心を誘うことはなかった。なぜなら、ボサノヴァが流行していた当時、そんなスタイルのコンボは他にもあったからだ。自分の才能を強く信じていたセルジオ・メンデスはその現状に決して満足はしていなかった。
ブラジル'65を解散した彼は、新たなグループをつくるにあたり、あるアイデアを温めていた。それは、インストゥルメンタル主体だったグループに女声コーラスを加えるというものだった。彼は、新しいヴォーカリストの起用にあたり声の質には特にこだわっていたという。シカゴで出会ったラニ・ホールに彼は独自の輝きを感じ、そのウェットな質感を持った歌声はまさに彼のイメージを具現化するものだった。結果的に彼女のヴォーカルはブラジル'66の象徴となった。そんな折、彼に運命的な出会いが訪れる。それは、当時A&Mをスタートさせ、みずからはティファナ・ブラスというグループで大成功を収めていたハーブ・アルパートとの出会いだった。そして、彼らのサウンドはラテン・テイストを打ち出していたA&Mのレーベル・カラーに見事にマッチし、ここにセルジオ・メンデス&ブラジル'66が誕生する。
記念すべきA&Mからのファースト・アルバム『Sergio Mendes & Brasil '66』は全米ヒット・チャートに126週間もランクされる大ヒットを記録し、デビュー・シングル“Mais Que Nada”のヒップかつクールなサウンドはセルジオ・メンデスの存在を世界に高らかにアピールした。
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