ミュージシャン・山下達郎が産声を上げた場所
「あのころ、もしも〈ディスクチャート〉で、フィフス・アヴェニュー・バンドが鳴り響いていなければ、シュガー・ベイブは生まれていなかった」 (山下達郎:談)。
1972年の秋、四ッ谷のとあるビル地下に〈ディスクチャート〉というロック喫茶がオープンした。入口にはヴォーカル・マイクのイラストが描かれた看板、 地下に降りる天井にはジョン・セバスチャンの大きなパネルが飾られていた。
私がその店で働くようになったのは、オープン後、数週間してから。アレンジャーの矢野誠さんの勧めで、小宮康裕(私の高校時代のバンド仲間)がまず働きだし、私があとに続いた。
オープン当初の音楽コンセプトは、ビートルズやバッド・フィンガー、デヴィッド・ボウイらに象徴されるようなブリティッシュ・ビート・ポップス系だったが、私たちが入ってからというもの、店でかけるレコードの傾向がガラリと変わっていく。
ラヴィン・スプーンフル、フィフス・アヴェニュー・バンド、オハイオ・ノックス、ローラ・ニーロ、バリー・マン、キャロル・キング、ジェイムズ・テイラー、ザ・バンド、アル・クーパー、アルゾ、ヤングブラッズ、ラスカルズ、ビーチ・ボーイズ、ジョニ・ミッチェル、ベン・シドラン、ケニー・ランキン、ダニー・ハサウェイ、マーヴィン・ゲイ、スティーリー・ダン、クイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス、バッファロー・スプリングフィールド、ポール・ウィリアムズ……。大部分が当時のロック喫茶では、まずかからない類のレコードばかりだ。別に他店と差別化しようという意図もなく、ただ私たちが好きなレコードをいつも聴いていたかっただけだった。
そんなころ、噂を聞きつけて来店した数少ない客のひとりが山下達郎だった。本人の記憶によれば、初めて店に入ってきたとき流れていたのは、ビーチ・ボーイズの『Surf's Up』だったという。
カウンター越しに言葉を交わすようになったのは、ヤングブラッズ特集をやっていたときだったと思う。私より歳下なのに60年代のヒット・ポップスに異常に詳しく、趣味も似ていたことから、すぐに意気投合。私のソップウィズ・キャメルのLPを彼に貸し、彼のイノセンスのLPを私が借りるというような付き合いが始まる。そして、それまでやっていたアマチュア・バンドの解散記念に自主制作したというLP『ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY』(ビーチ・ボーイズ、バディ・ホリー、ムーングロウズほかのカヴァー)を聴いて、彼の歌声にKOされる。
相前後して矢野さんに連れられて来たのが、大貫妙子だった。染色の勉強もしながら、歌も作って歌っているという彼女の印象は、ずばりジョニ・ミッチェル。そのうちに彼女のソロ・デビュー用のデモ・テープを閉店後の店で録音することになり、仲間たちと夜な夜なセッションを繰り返すようになる。そこへ、見学に来るようになったのが、山下だった。ここで初めて、山下と大貫が出会い、やがて、シュガー・ベイブの結成へと繋がっていくのだ。
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