運命的な出会い
先日、とあるセコハン・レコード屋に足を運んだときのこと。背中に怪しげな炎を燃やす(ように見えた)青年を見かけた。彼の横に立つと、目を疑うような光景が飛び込んできた。なんと、彼はゴム引き手袋をつけてレコードを手繰っていたのだ。
ここで達郎ファンなら、何を言おうとしているのかピン!とくるだろう。そう、その青年は、あの伝説の達郎スタイルでレコードと格闘していたのである。
ある瞬間、ゴム手袋クンの動きが止まり、覗き込めばそこにはバリー・マン唯一の未CD化アルバム、80年のカサブランカ盤『Barry Mann』が握られているではないか!
でき過ぎだが本当の話。レジからすぐさま次の戦地へと赴くように店を去りゆく彼(残念ながら長髪にあらず)を私は“Don't Know Much”の鼻唄で送り出してやった。
そんな光景を若き日の鈴木雅之も目撃している。レコードのバーゲン会場で、自分好みのブツをゴム引き手袋をつけた何者かが、目にも止まらぬ速さでかっさらっていく。その火の玉小僧こそ、誰あろう山下達郎少年その人であった。
そうしたエピソードが語る、氏の少年時代における音楽偏愛ぶり。ある意味この戦闘体勢は今なお生き続け、彼の厳しい音楽制作のスタンスに繋がっている。
運命的な出会い
山下達郎は、53年2月4日、豊島区池袋に生まれる。中学生のころからヴェンチャーズなど洋楽ポップスを聴き漁るようになった達郎少年は友人らとバンドを組み、ビーチ・ボーイズやレターメンといった、おもにコーラス・グループのコピーをやるようになった。
彼のルーツが垣間みられる一人多重録音コーラス作品〈ON THE STREET CORNER〉シリーズのレパートリーの大概も、彼が実際にリアルタイムで接していたものではなかったが、そんなひと昔前への興味は、この時期すでに芽生えており、彼を執念のレコード蒐集へと駆り立てていくこととなる。
執念の男、山下達郎。たとえば、高校時代の仲間と自主制作したレコード『ADDSOME MUSIC TO YOUR DAY』(現在は、ファンクラブでのみ入手可能)とサウンドトラック『Big Wave』(84年)の関係。両者にはビーチ・ボーイズのカヴァーをおこなっている共通項があり、後者にははっきりと前者に対するおとしまえ的態度が読み取れる。もちろんノウハウ的に未熟だった過去を全否定するような形ではなく、無邪気だった昔の自分に対し、いま、自分の力でどこまでできるかを優しく示しているのだ。
『ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY』は、重要な人物との出会いも生んだ。レーベル、ナイアガラを立ち上げる直前の大滝詠一だ。アメリカン・ポップスならびに音楽多方面への造詣の深い二人の邂逅はまさに運命的なものであった。73年 9月21日に文京公会堂でおこなわれた、はっぴいえんどの解散コンサート、そのバッキングに担ぎ出された達郎の新バンド、シュガー・ベイブがナイアガラ第1弾アーティストとして選ばれたのだ。
ファーストにしてラスト・アルバムの『SONGS』(74年)は、のちにジャパニーズ・ロック&ポップスの金字塔と呼ばれるほどの評価を獲得するが、発表時は不当な扱いともいえる形でシーンから黙殺されてしまった。その理由を考えれば、このアルバムに込められた〈キーワード〉を理解する回路がどこにもなかったからであり、〈洗練〉という抽象的な売り文句で道を切り拓いていくには、まだまだシーンは未開発の状態だった。
シュガー・ベイブにおける達郎のオリジナル・ナンバーには、当時のブラック・ミュージックやサザン・ポップなどからエッセンスを咀嚼したポップス・アプローチが見られ、この傾向はソロ活動に入ってからより追求されていくことになる。
ナイアガラでのひとまずの卒業作品となった達郎、大滝、伊藤銀次による競作『ナイアガラ・トライアングル VOL.1』(76年)には数年に渡って苦楽をともにした大滝へのオマージュ的なナンバーが入っている。カンツォーネ的歌唱法をフルに生かした“ドリ-ミング・デイ”やバブルガム・ポップ調の“パレード”といったスタイルを通じて、ナイアガラへのリスペクトを示した。
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