DAVID BOWIE
地球に落ちてきたボウイ
デヴィッド・ボウイ、本名デヴィッド・ロバート・ジョーンズは、1947年に英国サウス・ロンドンのブリクストンに生まれた。広告会社に勤める父、母、義兄テリーとデヴィッドの4人家族。プロムリー・テクニカル・ハイスクール時代のボウイは、兄テリーの影響でジャズやビート文学、オスカー・ワイルドなどを体験済みの、少々ませた少年だった。13歳でアルト・サックスを手にし、音楽にのめり込むにつれ、学校も結局中退、広告会社に勤めるもすぐに辞めてしまう。そして、音楽で身を立てたいと思い描くいまどきの若者たちと同様、バンド活動に明け暮れた60年代を過ごすことになり、スウィンギン・ロンドンよろしく、いくつかの名義のモッズ・バンドでレコードをリリース。やがて、モンキーズのデヴィッド・ジョーンズと間違われないよう、ボウイ・ナイフにちなんでデヴィッド・ボウイと改名する。一度はソロ・デビューも果たしたが、表舞台は遠い存在だった。67年にパントマイムの第一人者、リンゼイ・ケンプの門を叩き、音楽とパントマイムの2本立て生活が始まる。のちにいかんなく発揮される表現力と創作力はここで培われることとなった。なお、マイムで立ったT・レックスのステージがきっかけでマーク・ボランや、以後長い付き合いとなるトニー・ヴィスコンティと出会っている。
69年、映画「2001年宇宙の旅」にインスパイアされて書き上げたのが、壮大なロック・オペラ“Space Oddity”。〈宇宙に残された孤独なトムが、帰ることのない地球に想いを馳せる〉といった切ないストーリーは小ヒットしたものの、ボウイの名前は人々の記憶の片隅に残った程度だった。その後マーキュリーと契約し、『David Bowie』(のちに『Space Oddity』として再リリース)を発表するが、メディアには総スカンを喰らう。さらに、父の死、精神を病んでいた兄テリーの病状悪化などで、曲作りも思うように進まず、ボウイは苦悩の時期に突入する。71年の『The Man Who Sold The World』には当時の心象を反映したかのような暗く重い空気が漂い、話題になるのはジャケットでの女装姿ばかりだった(先行リリースのUS盤ではカートゥーンに差し替えられた)。しかし、みずからの最大の武器である中性的魅力を巧みに操ることで、ボウイの名は英国からアメリカへと飛び火する。のちに影の立役者となるトニー・デフリーズが新しくマネジャーに就任。前年に結婚した妻アンジェラ(アンジー)との間に息子ゾウイも誕生したが、ハッピーな気分は味わえなかった。しかし、プロモーション・ツアーでNYを初めて訪れたボウイは、ロンドンにはない自由の匂いに興奮する。アンディ・ウォーホルのファクトリーを訪れ、朋友となるルー・リードにも出会った。このNY体験をきっかけに、ボウイは立ちはだかっていた壁を壊し、次なるステージを模索しはじめた。RCAと契約し、“Changes”“Queen Bitch”“Quicksand”など名曲が粒ぞろいの『Hunky Dolly』で全英チャート3位まで昇りつめる。そして〈変容の男〉たらんとする決意表明、〈Che- Che-Che-Changes〉の言葉どおり、翌年、想像をはるかに超えたスターが誕生する。
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