世界中に子供を産んだアフリカ音楽
20世紀における世界のポピュラー音楽史について語ろうとすれば、アフリカ音楽からの影響、ひいてはアフリカン・リズムの重要性を切り離して語ることはできない。特にアフロ・アメリカンたちが開発、発展させたさまざまな音楽スタイルが、ジャズやブルース、そしてロックンロールと名付けられ、幾とおりもの道筋を作り出したことは、ポピュラー音楽の歴史のなかでもっとも重要な事実であろう。そして、アフリカのポップ・ミュージックもまた、外部から形式や方法論を採り入れ、同じようなプロセスを経て進展してきた。例えば、死後も衰えることのない影響力を持つフェラ・クティは、ジェイムズ・ブラウンのファンクから多くのアイデアを吸収し、アフロビートと呼ばれる独自のスタイルを完成させている。
クロスオーヴァーすることでお互いに発展してきたアフリカ音楽と世界のポピュラー音楽の歴史において、インターナショナルな活動展開を見せるアフリカン・ミュージシャンが増えたのが80年代であった。ユッスー・ンドゥ-ル、サリフ・ケイタ、キング・サニー・アデなどは、ヨーロッパ進出を足掛かりとして、世界各国での名声を得ることに成功したモダン・アフリカン・アーティストの象徴だ。また、ちょうどこの時期、かねてからさまざまな民族のコミュニティーが混在していたパリにアフリカのミュージシャンの多くが移住してきた。そのことによってパリのアフリカ人コミュニティーは活性化し、いつからかこの街は、アフリカ音楽が世界へ飛び立つうえでの重要な発信地という役割を果たすようになっていく。
同時期、アフリカ音楽にただならぬ注目を寄せていたピーター・ガブリエルがWOMAD(World Of Music And Dance)という、ユッスー・ンドゥールをはじめとするさまざまなアーティストを迎えたイヴェントを開催。諸々の流れが重なりあって、<ワールド・ミュージック・ブーム>が作り出されていく。アメリカでは先鋭的音楽集団トーキング・へッズが『Remain In Light』でアフリカ音楽への接近を示し、エスノ・ブームの着火をおこなっていた。かつてはアート・ブレイキーやジョン・コルトレーンといったアフロ・アメリカンのジャズ・ミュージシャンたちが、アフリカとの連帯の声を発していたが、トーキング・ヘッズのようなバンドの活動によって、〈アフリカ〉というキーワードがよりポピュラーな領域に接近してきたのである。そして、アフリカン・リズムを大胆に採り入れたポール・サイモンの『Graceland』という大ヒット・アルバムが、アフリカ音楽を無視できない存在に押しあげることになる。
日本は、その波を真摯に受け止めようとした国であった。80年代の終わりにはJAGATARAがアフリカ音楽的要素を採り入れながら、既存のロックのイディオムから外れた独自のスタイルを確立。また、そのJAGATARAのメンバーであるOTOがプロデュースを手掛けたKUSU KUSUやミスター・クリスマスなど、独自のアフリカ音楽観を匂わせるバンドが活動をおこなっていた。そしてそれは、西洋志向から脱却して新たなる日本産ポップ・ミュージックを誕生させようとする動きでもあったのかもしれない。 さまざまな国、または音楽のなかに溶け込み、そして影響力を持ってきた音楽、それがアフリカ音楽だ。
アフリカ音楽の魅力を世界へ伝えるきっかけになった作品を紹介。
2001年のWOMADの模様を収録したコンピ『Womadness 2001』(Real World)
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