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特集

ELIS REGINA(3)

カテゴリ : ピープルツリー

掲載: 2002年04月18日 05:00

更新: 2003年03月13日 18:06

ソース: 『bounce』 230号(2002/3/25)

文/国安 真奈

ボサノヴァを葬った女

エリス・レジーナは1945年3月17日生まれ。故郷はブラジル最南部ポルト・アレグレ市だ。生まれ育った家庭は貧しく音楽活動には縁がなかったが、彼女は非常に早熟なアーティストで、子供向けのラジオ番組に出演したのが7歳のとき。ラジオと初の専属契約を結んだのが14歳で、高校中退後、19歳になると彼女は当時の首都リオデジャネイロへ出て、本格的なプロ生活を歩み始めた。

折しも花の都リオは、ボサノヴァ時代後期の真っ直中。アントニオ・カルロス・ジョビン、ヴィニシウス・ジ・モライス、ジョアン・ジルベルトを中心とした、ひたすら柔らかく穏やかで羽根のような音楽だけでなく、ベッコ・ダス・ガハーファス(ナイトクラブ街)から生まれた、よりホットでエキサイティングなボサノヴァ・ジャズや、社会や政治を歌う硬派なプロテスト・ソングが台頭し始めていたころだ。そこへエリスはやって来たのだが、無論最初から大歓迎してもらえたわけではない。ボサノヴァの人々からは、彼女は田舎者だし、洗練された階級の出ではないし、男性的なヴォイスだし……と、散々色眼鏡で見られた。ただ、その歌唱だけは、当時からすでに高度なテクニックと存在感を持ち、一度聴いたら忘れられないほど強烈なものだった。

そんなリオをエリスがある意味で見限るのは早かった。彼女はサンパウロへ行き、同地で当時大学生らが中心になって主催していた一連のボサノヴァ・コンサートに出演。そのうちのひとつで彼女はマルコス&パウロ・セルジオ・ヴァーリ“Terra De Ninguem”を熱唱し、観客の度肝を抜いた。それを機に彼女を嫌っていたボサノヴァ人たちも、その才能を認めざるを得なくなっていく。



翌65年4月には、エリスはTVエセルシオルの歌謡フェスティヴァルに出場し、エドゥ・ロボの“Arrastao”を歌って優勝している。偏見や差別的な視線はあったが、結局、時代は彼女と彼女のパワフルな歌とを歓迎する方向へ動いた。学生主催のコンサートはどれも大盛況で、間もなく商業ベースに乗った同様のショウもおこなわれるようになっていく。なかでも評判が高く、後の音楽シーンの展開にも大きな影響を与えたのが、エリスとジャイール・ホドリゲスが共演した「Dois An Bossa」だ。ジョンゴ・トリオ、ボッサ・ジャズ・トリオといった、レベルの高いジャズ系ミュージシャンをバックに声量でもテクニックでもスウィング感でも、エリスがまったく負けていなかったことは、同名で3枚リリースされたライヴ・アルバムでも証明されている。そして、この「Dois An Bossa」の成功が、エリスに次のステージをもたらした。TVレコールの看板音楽番組「O Fino Da Bossa」の司会に抜擢されたのだ。

その先、エリスのキャリアは急激に加速する。「O Fino Da Bossa」は最初こそという言葉をタイトルに含んではいたが、後にただの「O Fino」と名を縮められた。この番組の寿命と終了の経緯は、ボサノヴァが名実ともに消え去り、ボサノヴァも含めた多種多様な音楽ジャンルを取り込んだMPB(ムージカ・ポプラール・ブラジレイラ)に取って代わられていった経緯と見事に重なる。エリスの天敵とまで言われた(しかし、後に彼女と結婚する)ボサノヴァ人、ホナルド・ボスコリの言葉を借りれば、彼女は「ボサノヴァを埋葬した」のだ。埋葬されたボサノヴァの後には、多くのMPBアーティストたちのキャリアが開花した。エドゥ・ロボやミルトン・ナシメントなど冒頭に書いたアーティストたちはもちろん、そのほかにもヘナト・テイシェイラ、チン・マイア、スエリ・コスタ、ファギネル、ベルキオール、クラウジオ・ルッチ、ホナルド・バストス、ファチマ・ゲージス、トゥナイ、セルジオ・ナトゥレーザ、ジョイス、アナ・テーハ……などなど、こうした数え切れないほどの才能あるコンポーザーや、作詞家たちの作品に、エリスは強大なエネルギーを吹き込み、聴き手の心を共鳴させていったのだ。

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