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ダブリンで出会った四騎士

先日、NHKのBSで放送されたU2の最新ライヴの模様を、あなたはご覧になっただろうか。マサチューセッツ州のボストンでおこなわれたコンサートを収録した映像は、全編で2時間弱。おそらく、コンサートで演奏された曲がすべて収められていたのだろう。日本公演は実現していない2001年のU2の姿を、そこで僕は堪能することができた。

そのライヴでなによりも強く感じたのは、現在のU2が、いままでになくオーソドックスで、楽曲を楽曲として聴かせるバンドになっているということだ。思想とか、政治性とか、音楽的なルーツとか、いままでの彼らを語るときに必ず付きまとっていたそれらの事象は、乱暴に言えば二の次。あくまで楽曲そのものの美しさや逞しさが全面に出て、思想や政治性や音楽的なルーツは楽曲のあとから自然とついてくる。2001年のU2は、ひと言で言うなら、そんな演奏を聴かせていたのだ。

なにしろ、90年代のツアーに見られたような派手な仕掛けは、一切なし。オープニング・ナンバーの“Elevation”は、客電がついたまま演奏されるし、かの“Sunday Bloody Sunday”さえも、正面から楽曲の力強さを示すように歌われていく。2000年にリリースされた最新作の『All That You Can't LeaveBehind』でも、現在のU2は90年代とは違う地点に立っていることを示していたわけだが、そのライヴの映像を見ることで、彼らの変化をさらにはっきりと窺うことができた。

デビューから20年以上を経たU2の〈終わりなき旅〉は、アイルランド期~アメリカ期~電脳サイバー期とでも名付けるべき時代を経て、今、また次なる局面を迎えているというわけだ。

ダブリンで出会った四騎士

  U2はよく〈アイリッシュ・バンド〉という言い方をされるが、4人のメンバーのうち、生粋のアイルランド人はボノ(ヴォーカル)とラリー・マレン(ドラムス)のふたりしかいない。そのボノとラリーはアイルランドのダブリン生まれだが、アダム・クレイトン(ベース)はイングランドのオックスフォード、エッジ(ギター)はイースト・ロンドンに生まれ、ともに幼少のころにダブリンへと移り住んでいる。つまり、メンバーの半分はアイリッシュではないというわけだが、しかし、そんな4人がダブリンという都市のハイスクールで出会ったことが、U2というバンドのアイデンティティーを決定付けることになる。

 では、なぜU2にとってアイルランドという土地が重要になったのか。そこには、プロテスタントとカトリックというふたつの宗教間の対立が、大きく関与している。両者の対立が激しいのは主に北アイルランドだが、北アイルランドは国としては英国に属するものの、民族的にはアイルランド共和国の方に近いという複雑な立場にある。アイルランドのダブリン市民がその影響を受けてきただろうことは想像に難くないし、前述の“Sunday Bloody Sunday”も、72年に北アイルランドのデリーで起こった、いわゆる〈血の日曜日〉事件を題材に書かれている。公民権の拡大を求めるカトリックのデモ隊に英国軍が発砲をし、13人の命が落とされたという悲惨な事件だ。

 その“Sunday Bloody Sunday”が収められているのは、83年のサード・アルバム『War』。『War』は、内容的にもセールス的にも、初期の彼らの頂点といえるアルバムだが、そこへ辿りつくまでの道のりは、初期アルバムのジャケットに写ったピーター少年の表情が端的に物語っている。76年にハイスクールで出会った4人が、次第に少年性から脱皮し、社会との関わりをもつようになっていく。80年のファースト・アルバム『Boy』、81年のセカンド・アルバム『October』、それに『War』の3枚には、その過程が清冽に描かれている。当時の彼らは、音楽的に見れば、英国のニューウェイヴ勢とも肩を並べるようなギター・バンドだった。

 しかし、エッジの独創的なギター・ワークや、シャープなリズム・セクション、それに力感溢れるボノのヴォーカルは、3枚のアルバムを手掛けたプロデューサーであるスティーヴ・リリーホワイトにも磨かれ、次第に個性を増していく。そしてグループのアイデンティティーを、アイルランドを取り巻く環境に見い出した彼らは、全英チャートで初登場1位を飾った『War』で、最初の到達点に辿りついた。人々の間の対立や紛争に〈No〉を唱えたアイルランド期のU2は、それゆえに政治的なバンドというイメージを肥大させてもいったのだった。

アメリカ、そして世界へ

『War』のリリースによって全米でも大きな人気を得たU2は、その後、自身の音楽的なルーツをアメリカの音楽に見い出す姿勢を強めていく。アルバムで言えば、84年の『The Unforgettable Fire』、87年の『The Joshua Tree』、88年の『Rattle And Hum』の3枚の時期だ。

このころの4人は、アルバムのプロデューサーを務めたブライアン・イーノとダニエル・ラノワの協力も得て、アメリカの文化とルーツ・ミュージックを貪欲に吸収していく。ジャズ、ブルース、カントリー、ゴスペル、リズム&ブルース……。ロックンロールのルーツを探究する旅に出たU2は、エルヴィス・プレスリーでも名高いメンフィスのサン・スタジオでレコーディングをおこない、アメリカン・ミュージックを育んだ数々の著名ミュージシャンとの共演も重ねていった。ボブ・ディラン、BBキング、ザ・バンドのロビー・ロバートソン、ヴァン・ダイク・パークス。中でも、全米チャートで9週間も首位を独走した『The Joshua Tree』は、U2を世界的なトップ・バンドの地位に押し上げた。

そこでは、米国のルーツ・ミュージックを誠実に吸収した4人の姿が描かれ、初期のころよりずっとふくよかな音楽が鳴らされている。政治的な視点と、加えて格段に深くなった音楽的な素養。それらを併せ持ったバンドは、『The Joshua Tree』のジャケットが象徴するように、究道的な佇まいさえ見せるようになった。しかし、出る杭は打たれる。彼らが生真面目な態度を見せれば見せるほど、今度は、カタブツのバンドというようなイメージもまとわりつくようになる。加えて、スタジアム級の巨大な会場ばかりを回るコンサート・ツアーの連続。スーパー・バンドになったアメリカ期のU2は、もっともロック的ではない場所でしかコンサートをおこなうことができないロック・バンド、というような矛盾を抱えて込んでいった。

カテゴリ : ピープルツリー

掲載: 2002年01月31日 17:00

更新: 2003年03月13日 18:07

ソース: 『bounce』 228号(2001/12/25)

文/宮子 和眞

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