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いよいよ成長期を迎えたヒップホップ(2)

カテゴリ : フィーチャー

掲載: 2002年01月24日 06:00

更新: 2003年03月07日 19:01

ソース: 『bounce』 228号(2001/12/25)

文/古川 耕

次々に登場する現行シーンの立役者たち

ここで<さんピン>のビデオを見返すと、RhymesterがKING GIDDRAとSOUL SCREAMを招いた“口から出まかせ”を境に、 90年代中盤以降、YOU THE ROCK、RINO、G.K.MARYANらが発する強烈な磁場が支配的になっていくことに気が付くだろう。そう、彼らが雷のメンバーだ。95年には、六本木のクラブZOAで、西麻布YELLOWで<亜熱帯雨林>、芝浦GOLDでの<暗夜航路>が開催されており、その中からユニット<雷>が生まれた。YOU THE ROCK、TWIGY、RINO、G.K. MARYAN、GAMA、DJ PATRICKら、それぞれ個別に活動していたアーティストが集合して生まれたこのユニットがそもそも、さるオーディション番組のラップ・コンテストをジャックするために結成された、という出自からして、ハードコアだ。彼らが当時のアンダーグラウンド熱の頂点に位置する存在であったことはあきらかだし、その熱は、<日本のハードコア・スタイル>として広く全国に、あるいは現在にまで流布していく。当時の熱気が日本のラップ音楽史上最高のものだったと語る者はいまだ後を絶たないし、それは<亜熱帯雨林>が形と規模を変えつつも、現在<祭>としていまだに定期的に開催されていることからも(そしてそこが満員の客で埋まることからも)、その影響力の強さが窺えるだろう。

95年には、Rhymesterが『EGOTOPIA』を発表し、前述のように、KING GIDDRAとSOUL SCREAMを紹介している。前者はその年末に傑作アルバム『空からの力』を産み落とし、同年に遅すぎたファースト・アルバム『DON'T TURN OFF YOUR LIGHT』を発表したMICRPHONE PAGERと双璧をなすほど、のちのシーンに重大な影響を与えた。KING GIDDRAのMCで、98年にソロ・アルバム『THE RHYME ANIMAL』を発表するZEEBRAのラップ・スタイルは、熟語を多用した文語的なもので、極めてメソッド化しやすく、多くのフォロワーを生んだ。そのZEEBRAをフィーチャーし、“Greatful Days”を大ヒットさせたDragon Ashの降谷建志にしても、彼からの影響をはっきりと公言している。

ほかに95年といえば、コンピレーション・アルバム『悪名』が果たした役割も忘れてはならない。それまでメディアが見向きもしなかった<リアルな>アーティストたちにスポットを当て、なかでも“ヤバスギルスキル”で話題を集めたラッパ我リヤは、そのまま一気に98年のデビュー・アルバム『SUPER HARD』までこぎ着け、頑固なまでにライミングにこだわる彼らのクルー=走馬党は、シーンに独自のポジジョンを築くことになる。

また96年には、前年に自主制作でリリースしていたシングル“人間発電所”をメジャー・リリースしたBUDDHA BRANDが、日本語ラップ・シーンを大きく飛び越え、クラブ・シーン全体にまで広くアピールした。リリックはあくまでイル、しかし耳に馴染みやすいラップ。ソウルフルでファンキーなプロダクション、なにより本人たちの特異過ぎるキャラクター。ある種ポップとも言える彼らの存在感は、裏返しに、日本のラップ音楽がいまいちマスに受け入れられない理由すらも浮き彫りにした。

同じく96年には、YOU THE ROCKが『THE SOUNDTRACK '96』をリリースし、同年末のLAMP EYE“証言”とともに、雷的なハードコア・スタイルの頂点を極めた。YOUは当時、TOKYO-FMで伝説的なラジオ番組のホストも務め、当時の熱気をうまくコンパイルしていた。

こうして軽く振り返ってみただけでも、現在の日本語ラップ・シーンを構成するメンバーが、当時から地続きの活動をしていたことがわかるだろう。 95年、当時の一線級のアーティストが勢揃いしたイヴェントのひとつに<マス・アピール>というものがあった。そう、まるで、シーン全体が一枚岩のように、マスへアピールする動きを見せていたのだ。そこに派閥や政治がなかったわけではないだろう。が、少なくともそれは表立ってはいなかったし、なによりファンは、アーティストたちと一体となって、シーンそのものの<成長>を支え続けたのである。

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