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序章──ヒップホップを生きる世代の登場(2)

カテゴリ : フィーチャー

掲載: 2002年01月24日 06:00

更新: 2003年03月07日 19:01

ソース: 『bounce』 228号(2001/12/25)

文/荏開津 広

ビースティー・ボーイズが日本のヒップホップ・シーンに与えた影響は大きかった。日本のヒップホップを始めた人間たちは大きく2つのタイプに分けられるだろう。ひとつはディスコからブラック・コンテンポラリー・ミュージックを経てヒップホップに気が付いた連中だ。 DJ KRUSHやMC BELL、CRAZY-Aといった人間はどちらかといえばそちらに分類されるだろう。そして、もうひとつはランDMCとビースティー・ボーイズの出現によって自分たちにもヒップホップができると考えはじめた連中だ。むろん、その前の83年にクラシックなヒップホップ映画「ワイルド・スタイル」のキャストやクルーがプロモーションのために来日していたのは大きかった。フューチュラも、コールド・クラッシュ・ブラザーズも、ファブ・ファイヴ・フレディも、オールド・スクールの重要な連中がみな来日しているのだ。このショックは彼らを実際に見た連中にしかわからないのかも知れない。

やがて、このアメリカのヒップホップ~ラップ・スタイルに、頭韻、語尾を同じ言葉で統一、仲間内での独自の言葉遣いといった効果が採り入れられてくる。この操作で、英語だけの魔術が少しづつ少しづつ、日本語でも可能になっていった。こうしてヒップホップはその発展過程でさまざまな副産物を産み落としていく。〈日本のヒップホップ〉と呼ばれる摩訶不思議なものの誕生である。しかし、いまではそれに〈日本の〉という冠をつける必要がないくらい発展している。ヒップホップがワールドワイドな言語だという証明である。

そして、だからこそ、日本のヒップホップは経済が右上がりのうちにはリリックの内容に困っていた。たとえば、プレジデントBPMはみずからのサイケデリック体験をヒップホップに結び付けることをしている(“なすきゅうり”という奇妙な名前の曲がその曲だ)。そうやって、日本のヒップホップは、新しい才能や、ストリートでおもしろそうなことをしたい若者たちをどんどん惹きつけていった。

ニューヨークにおける〈ストリート〉はもちろん商売文句だけのものではないし、そこで生き残る音を作り続けることが、文字どおり自分を生き残らせるのだろう。だからこそ、ストリート・ダンス・ミュージックとしてヒップホップは、進んでいた(と、あえてこの言葉を使おう)のかも知れない。 DJクール・ハークをはじめとしてブレイクビーツが南ブロンクスの野外ディスコを席巻し始めたのは70年代のことなのだ。いったい、残りの世界はどれだけ彼らに遅れていたのか? というのも、ヒップホップは、音楽がダンス・ミュージックとして聴かれるようになる現在のポップ音楽の状況を見事に先取りし、大胆にもその本質的な部分を掴みだしたような発想だからだ。ダンス・ミュージックという言葉を、僕はレイヴの時代にもっと重要視するべき音楽スタイルだという意味においてここで使っている。

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