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特集

親しみやすいメロディーと抜群のソウル・フィーリング

カテゴリ : ピープルツリー

掲載: 2001年12月13日 22:00

更新: 2003年03月07日 18:51

ソース: 『bounce』 227号(2001/11/25)

文/桑原 シロー


ホール&オーツをまず一枚!という人には、このたび新たに編集されたベスト・アルバム『Darly Hall & John Oates Best』(RCA/BMGファンハウス)がオススメ

音楽界における〈カッコイイ80's〉をランキングしたら、ホール&オーツは何位にランクされるのだろうか? 思うに〈決してカッコ悪くはない〉という題目なら上位ランキング間違いナシだろう。 ホール&オーツをまず一枚!という人には、このたび新たに編集されたベスト・アルバム『Darly Hall & John Oates Best』 (RCA/BMGファンハウス)がオススメ とにかくポップ・スターとして注目を浴び過ぎてしまったがために(芸能界的ノリの仕事も多くこなしているし)、いまださまざまなレッテルがベタベタくっついているように思える(とくに商業的に大成功を収めた時期をリアルタイムで体験している人たちにとっては)。たしかに僕もジョン・オーツのポートレイトを見ると、鬚の先に〈モダン〉という名の雫が光っているかのように思えてすっぱくなったりする。しかし、この希有なポップ・デュオの音楽性をクリアな態度で評価しようとする場も増えてきた。いまもなお『Voices』が彼らのベスト・アルバムのポジションに置かれているのか? 世評がどうなのかよくわからんが、スタンダード・ナンバーの列に彼らの名曲が多く増えたことは知っている。祝ベスト・アルバム、リリース!

下積みを経て、表舞台へ

67年のある日のこと、ダンス・パーティーの会場に一発の銃声が鳴り響いた。不良グループたちのいざこざが起こり、誰かがピストルを抜いたのだ。色めき立った若者たちは一斉にその場から逃げ出す。エレベーターへと滑り込んだ連中の中に2人の青年がいた。若き日のダリル・ホールとジョン・オーツである。当時、ホールはテンプトーンズというグループで音楽活動をおこなっており、一方のオーツもマスターズというグループのリーダーで、2人とも学生ながら、フィラデルフィアでは名の知れた存在であったのだ。その場で急激に親密になったホールとオーツは共同生活を始め、曲作りに励む生活を送る。レオン・ハフとトム・キャンベルも在籍したケニー・ギャンブル&ロメオズのバックの仕事をこなしつつ、世に出る機会を窺っていた彼らだが、オーツがヨーロッパへと旅立ってしまう。残されたホールは、ガリヴァーというロック・バンドを結成し、アルバムを1枚発表するものの、陽の目を見ないまま解散。しかし、まもなくオーツが帰国、ふたたびコンビを組むこととなり、ようやくホール&オーツのスタートが切られた。

やがて2人は、その才能を認められ、アトランティックとの契約にこぎつける。ニューヨークに拠点を移し、アリフ・マーディンのプロデュースによる『Whole Oates』(72年)を発表。以後、同レーベルでは『Abandoned Luncheonette』(73年)、『War Babies』(74年)と計3枚のオリジナル・アルバムを制作する。日本においてこの初期作品は、(ようやくアメリカで)シングル・ヒットが出始めたころのリリースとなったため、その後しばらくは存在感の薄い作品であり、習作時期のアルバムとしてひと括りにされることもしばしばであった。しかし、現在ではそんな評価も様変わりしてきている。70年代の空気をいっぱい吸い込んだ瑞々しい手触りに、若いリスナーたちが反応したのだ。とくにゴードン・エドワーズやバーナード・パーディーといった辣腕ミュージシャンがバックを務めた『Abandoned Luncheonette』は、〈フォーキー〉というキーワードの流行も手伝って、一気に名作として祭り上げられたりした。同アルバムには“She's Gone”など必殺ナンバーも収録されているが、なんといってもバラード職人、オーツ作の名曲群が光る。注目すべきは、トッド・ラングレンがプロデュースを手掛けた『War Babies』。当時、デヴィッド・ボウイやニューヨーク・ドールズのサウンドに影響を受けていたホールの思惑を反映させたこの作品は、奇妙なミキシングが施され〈プログレッシヴ・ソウル〉などと名付けられた。ホールは、トッドとのレコーディングから得たノウハウで大きく飛躍するきっかけを掴んだ、と、のちに評されるのだが、本作は世間からも本人たちからも失敗作と断じられてしまう。しかし、この作品は〈いま〉の耳で聴いてみると、案外おもしろい内容だ。

しかし、まだまだ〈ブレイク〉とまではいかなかったホール&オーツは、新天地、RCAに移籍する。そのスタートは、ゲイ風のメイクを施したジャケット(このイメージが後々まで尾をひくこととなるのだが) が印象的な『Daryl Hall & John Oates』(75年)。ここからシングル・カットされた“Sara Smile”が大ヒットを記録する。ここでみずからのルーツであるソウル音楽やその他さまざまな要素を融合させた〈ロッキン・ソウル〉なるスタイルを確立した彼らは『Bigger Than The Both Of Us』(76年)、『Beauty On A Back Street』とコンスタントにアルバム・リリースを重ねる。シングル・ヒットも続き、なかでも“Rich Girl”は、77年3月から4月にかけて全米No.1に輝いた。78年には初のライヴ・アルバム『Livetime』を、そしてデヴィッド・フォスターをプロデュースに迎えた2作『Along The Red Ledge』(78年)、『X-Static』(79年)を発表していく。当時、アーバン・ポップの貴公子的存在であったデヴィッドのクロスオーヴァー・センスを採り入れたこの両アルバムでは、よりミクスチャー的傾向が進み、いっそう洗練を極めたナンバーが増えている。日本でも人気の高い“Wait For Me”などは、この時期の2人の魅力が凝縮された名曲だ。この当時の彼らには、このスタイルを基に前進すればもっと名作が生み出せる、という自信が漲っていた。そして目の前に80年代がやってくる。

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