キング・オブ・ポップの誕生(2)
まだ見ぬ自分の姿を求めて
『Thriller』からは、82年の発表以来、2年近くに渡ってシングルが切られたが、84年には『Thriller』の余勢を駆ってジャクソンズの5作目『Victory』を制作、〈勝利〉宣言をしている。このころのポップ音楽界は、もうほとんどマイケルの独壇場のようにも感じられたが、全米チャートではカルチャー・クラブら、いわゆる〈ブリティッシュ・インヴェイジョン〉が幅を利かせていた時代でもあり、強敵は多かった。とくにマイケルと並んで〈80年代型ポップ・スター〉の象徴的存在であるプリンスとマドンナは、それぞれ84年に“When Doves Cry”と“Like A Virgin”というメガ・ヒットを放っている。お行儀の良いマイケルに対して、斬新なサウンドでセックス・アピールをするこの2人にはさすがのマイケルも反応しないわけがなく、とりわけ同じ黒人ながら自身とは正反対のミステリアスで危険なイメージを打ち出していたプリンスには相当なライバル心をもっていたという。ヴィジュアル的にも黒人でありながらライト・スキンのプリンスを意識していた?とは余計なお世話だが、90年代後半、2人目の妻デビー・ロウとの間に生まれた男の子の名前は〈プリンス〉だったりする(笑)。音楽界に限らず、大物という大物とはなんらかの関係をもちたがる征服欲の強い(?)マイケルだが、プリンスだけは自分の意のままにならなかったようだ。
……というのは、85年、クインシー・ジョーンズの呼びかけにより米国のポップ・スターが集ったエチオピア飢餓救済プロジェクト〈USA For Africa〉を見てもあきらかだ。プリンスは同プロジェクトのアルバムに楽曲提供こそしているものの、マイケルとライオネル・リッチーが共作した主題曲“We Are The World”への参加は拒んでいる。たしかにどう考えても、この主題曲は〈危険な〉プリンスにはそぐわない。マイケルのような善良なアーティストが歌ってこそ、の曲である。と、まあ、このプロジェクトの成功をキッカケに、以後のマイケルは、人類や地球、そして子供たちに向けたメッセージ・ソングにみずからの活路を見出してもいる。86年にはディズニーランドに自分のアトラクションをもつという幼少のころからの夢をかなえようと、フランシス・コッポラ監督を招いて3Dの短編映画「キャプテンEO」を制作するなど、やっぱりマイケルという人はいつまでも純情な少年、プリンスやマドンナのような〈汚れた大人〉にはなりきれなかった。
ところが、そのタイミングで登場したマイケルの新作『Bad』(87年)は、拳を握ったワイルドな風貌のジャケットからも窺えるように、それまでのイメージをブチ破っている。これがプリンスへの対抗策なのかどうかはわからないが、5,000万枚を売り上げた前作『Thriller』を越えなければいけないというプレッシャーに苛まれながらも、マイケルはできる限りの知恵と力を絞って新しい自分をアピールしようとしたのだろう。実際、サウンドの作りも総じてロッキッシュになっているし、歌い方だってかなり過激だ。前作を下回る3,000万枚(それでも十分だ!)というセールス結果にマイケルは不満だったというが、しかし〈ビートで勝負〉な90年代に進むためには、アグレッシヴな立ち居振る舞いでイメージ・チェンジを図っておくことも必要だった、といまにして思う。80年代のマイケルは、成功の陰で、絶えずまだ見ぬ自分を探し求めていたのである。
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