〈ブラジリアン・グルーヴ・マスター〉の軌跡(2)
ただのボサノヴァじゃなくて〈ポップス〉
60年代には一時期(66~68年)アメリカを活動の場として選択したマルコス。そんな彼をして当地のプレスが寄与した称号が〈ポスト・ジョビン〉。しかし本人にとって、これほど嫌悪感にかられるレッテルはなかったと伝えられている。もちろんこれはアントニオ・カルロス・ジョビン先生のことが嫌いなわけではなく、逆に心の師として薫染を仰いでいたからこその自粛の表れであった。ジョビンは1927年、マルコスは1943年生まれ。世代も違えば育ってきた環境も異なる。それによって練り出される芸とて、ずいぶん異なるのは自然なことだ。美しい旋律を紡ぎ出すという共通項は疑いなくあるだろうが、その〈美〉への取り組みようの違いも少なくない。テクニカルな技巧と美しい旋律のマッチングを最大の妙としながら〈個〉としての強固なイメージのもとに小宇宙を形成するジョビン。いっぽうのマルコスは、自分を光らせるためにはあらゆる装飾品(ボサノヴァ以外の音楽)を取り込むことも臆せず履行していた。彼は決して天才肌ではない。しかし、時に額縁に入れられた高価な絵画よりも、なにげなく道端で売られているスケッチ程度の絵が人々に感動を与えたりもするように、マルコスの描くポエジーは生活感を大切にしたシチュエーションありきのもとで構成されていることが多く見受けられる。
言ってみれば〈ポップス〉。ジョビンはもちろんホベルト・メネスカルやカルロス・リラといったボサノヴァ人からの影響を公言すれど、マルコスはボサノヴァのオピニオン・リーダーという重責のないボサノヴァ・ニュー・スクール(第2)世代だけに、実にスタンスが軽い。ここが奏功となったのだろう、先代が築き上げたボサノヴァという枠に緊縛されることなく、あらゆるタイプの楽曲をつぎつぎと連発していく。結果として、これはボサノヴァの概念を発展させた行為とも言えるものだった。
なかでも特筆すべきは『Viola Enluarada』(68年)。アメリカから帰国の途についたマルコスを迎え撃ったのは、軍事政権によって変わり果てた故郷。紺碧の海に澄み切った空、すべてはボサノヴァを掌る自然背景に、まるで暗幕が掛けられたような異変を生じさせた国内の社会情勢。それに呼応するような形で完成させたのが『Viola Enluarada』だった。ここにはマルコス交遊録から見逃されがちなミルトン・ナシメントから高名な詩人ルイ・ゲーハといった、いわば社会派ともいえる創作家が参加し、ポリティカルな方向性を作品全体に与えている。
前作にあたるUS録音の傑作『Samba '68』とは一変して全体を掌握する陰影。しかし、そんなシュールな演出をみせながらも、なおマルコスは煌々たるメロディー、ハーモニーへのこだわりを捨ててはいなかった。それは祖国再興への希望の表れなのか。もちろん、昨日までのレトリックの流用はここでは通用しない。しかし、新たなディレクションを模索し、結果、実を結ばせられたからこそ、この一枚は70年代マルコスの伏線となったのだ。折しも時代はトロピカリア運動真っ只中。その渦中にあって、なお生き抜かなければならないボサノヴィスタの意地のようなものがそこには感じられる。
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