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とした歌声を残したシンガーソングライター(2)

NYを歌った少女

ローラは1947年10月18日、ニューヨークはブロンクスのイタリアン・ジューイッシュの家庭に生まれた。父はセールスマンをやっていたがジャズ・トランペッタ-でもあり、母はクラシックをはじめとして大の音楽好き、という環境で育つ。音楽家としての萌芽は小学生のころから顔をのぞかせており、すでに作曲をおこなっていたという。本格的な音楽学習はマンハッタンの〈ミュージック&アート〉という専門学校に入学してからだ。当時はちょうど公民権運動の興隆などアメリカ社会の変動期にあたり、プロテスト色の強いフォーク・ミュージックの台頭が音楽界で注目されつつあった。ローラもその波を被り、自己表現に思想性を注入していくようになる。なかでもフェミニズム運動の旋風は彼女を鋭く射貫き、人生を通しての重要なテーマとなって晩年まで創作のモチベーションとなり続けた。66年、学校卒業と同時に彼女は自作の曲をもってレコード会社をまわるが、程なくしてヴァーヴ(フォークウェイズ)との契約に漕ぎ着ける。そして、シングル“Wedding Bell Blues”でレコーディング・アーティストとしてのスタートを切った。翌年にはファースト・アルバム『More Than A New Discovery』を発表。玄人筋から評判を得るが、世間の反応はいまいちで、ヒットするには及ばず。理由は明白だった。ジャズ、ブルース、R&B、ゴスペルといった黒人音楽のエッセンスを咀嚼し消化した高度な音楽性が先を行き過ぎていたから、そして、とにかく不敵過ぎたのだ。なによりこのアルバムの素晴らしさは、こぼれ落ちそうな音楽的閃きがダイレクトにカッティングされているところである。また“And When I Die”のような、スタンダードなきらめきをもったナンバーが置かれ、あまりの早熟ぶりに瞠目させられる。

やがて、彼女の評価を決定づけるアルバムが登場する。CBSに移籍し、満を持して発表された『Eli And The Thirteenth Confession』(68年)である。プロデューサーにフォー・シーズンズを手掛けたチャーリ-・カレロを迎えて、ローラはニューヨークという都市の坩堝を見事にサウンド・スケッチすることに成功した。きらびやかな景色を捉えていたカメラが、一転して深淵を映し出したりする展開が待っていたりと飛躍的なイメージが次々とあらわれる。と、まったく大胆で創意に満ちあふれた作品であった。翌69年には『New York Tendaberry』を発表。吹雪と静寂が交互に吹きつけ、聴く者の肌に突き刺さるようなこのアルバムで、ローラはスピリチュアルなアーティストの代表格となる。また、このころ、彼女の曲が多くのグループ、シンガーに取り上げられていた。“Stoned Soul Picnic”を大ヒットさせたフィフス・ディメンションをはじめ、スリー・ドッグ・ナイト(“Eli's Comin'”)、ブラッド・スウェット&ティアーズ(“And When I Die”)、バーブラ・ストライザンド(“Stoney End”)など、ポピュラー畑からニュー・ロック派までと幅広く重宝された。詩とメロディーのどこか一風変わっているユニークさと楽曲のもつ寛容さが大いにもてはやされた理由だろう。そんななか、彼女の精神性に影響された音楽を作るものも現れてくる。代表格はトッド・ラングレンだ。ビート・バンド、ナッズを解散させたあとに彼は『Runt』というソロ・アルバムを発表するが、そこにはローラの影が見え隠れしている。トッドは彼女のベースにあるスピリチュアルな空気を自己の内的世界に吹き込もうとしたのであった。昨今、彼女からの影響を公言する女性シンガーが増えているが、このトッドと同じスタンスでローラの音楽を捉えているのであろうと考えられる。つまり彼女の音楽に良質さを越えた崇高な何かを見い出している、ということだ。

フェリックス・キャヴァリエ(ラスカルズ)、アリフ・マーディンをプロデューサーに迎えたアルバム『Christmas And The Beads Of Sweat』(70年)を経たのち、ローラが作り上げたのは、全曲がカヴァーによって構成された『Gonna Take A Miracle』(71年)だった。

カテゴリ : ピープルツリー

掲載: 2001年11月15日 15:00

更新: 2003年04月02日 14:44

ソース: 『bounce』 223号(2001/7/25)

文/桑原 シロー

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