カスタマーズボイス一覧

スヴャトスラフ・リヒテル・プレイズ・モーツァルト・コンチェルトズ / スヴャトスラフ・リヒテル、他

ブリューノ・モンサンジョン氏の映像に、モーツァルトに関して「わからない」というコメントがあった。しかし、ソナタでも協奏曲でも決然と奏者は弾き始める。さて、ベートーヴェン演奏の場合と比較すると、曲想の解釈が対比奏法になじまない。そこで、奏者は何に従うのか。作曲者に従う。それならば、どのように従うのか。

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村夫子さんが書いたカスタマーズボイス

(全673件)

トラック1、2は器楽曲の音の有力な判別手段。後者はカザルスが書店で楽譜を発掘するまで世に主流をなし得なかった。本盤本演奏は奏者の各曲に対する解釈であり、一定の見識を呈する。良いと思った。主旋律を口笛で、と感じた箇所が幾つもあった。主旋律に意識が赴く。

先ず個々の楽器(発音体?)単体の音の特異な魅力に満ちている。次にすぐに判明するのが、フレーズとその推移の選択のセンスの所在であって、奏者は、聴衆とこれを共有する。初っ端のwork01で、複層構造の曲を呈示する。これは成功で、かつて冨田勲氏がFM放送で4トラック以上の音の拡散と集積とを示してみせた企画に似ている。当方ならその聴覚上の経験の淵源はいずこにあるか。アーケードゲームでArkanoidというものがあり、その使用音源にすでに複層がみられたと記憶する。steel drumなので、金属様の残響がある。残響は曲全体を活かしもすれば殺しもするのであって、本盤では奏者によるひとつの提案がなされている。もし抑制すれば? 祭りのお太鼓にまで落ちるかも知れない。そこで適度な響きが必要となろう。繰り返して聴き、聞くに耐える素晴らしい音の数々である。ジャズのインプロヴィゼーションで1970年代に出されたLPにあった類の企画の熱気が感じられる。ところで一般に「宇宙音」の正体とは何か。映画音楽を中心に場面が宇宙にいたる際に音が鳴る。本来宇宙に音はない。それが既に我らは、宇宙音を経験していて、その良し悪しを判別できる。ここでは純粋に楽器の音が示す形がある。音への慣れと承認とであろう。

「喜び、悲しみ、憎しみ、強さや弱さ、あらゆる人間の感情すべてを表現できるもの、誰を傷つけることもなく、そして万人に公平に伝えることのできる手段として音楽というものがこの世に存在するのではないだろうか。自然の大きさすべてを優しさと言えるなら、それに包まれた私達はその中で無条件に生かされている。自然に反発しようとも打ち勝てる者は、地球上に存在しない。私達はその中に身を委ねるしかない。」「そんなペルトの世界観が打楽器で表現できるものか、とてもかけ離れた世界にあるようにも思うが、敢えてそこに挑戦したいと思い、奏法、録音法、空気感などあらゆる手を尽くして音色作り、音楽創りを考えた。」以上は奏者自身の感想の一部抜粋。奏者にあってはこれが真実であろう。当方もペルトを好むし、その音に多くの聴き手がさまざまな見解を持つにいたることは多様性自体が楽しい。これにアンチテーゼを付しておくべきか否か悩む。受容者として前世紀末から苦闘してきたゆえに。例えば、運動生理学の世界ならば、多種感覚の同時共在は第2法則である。しかし、この世に実際には「同時」はあり得ない。先般亡くなったある作曲家兼演奏家は同僚のドラマーに遠慮して、リズムについては、うまく表現できているか自信がない、と発言したが、できてきた音の保持するリズムはどんぴしゃりで、ドラマー張りであった。そのことを当方はひと月ほど繰り返し聴いて確認した。即ち、本来あり得ない「同時」への挑戦を敢行し、やり遂げてあった。このことは傍系の別種の問題も派生させるのであって、自然は無駄を許さず、自然を模倣する音の創出=写生は、反復行為にあたり、一種の無駄と判断できるが、その無駄が存在しても良い理由があれば、新たな音は存在を許される訳である。『惑星ソラリス』の音楽にIch ruf' zu Dir, Herr Jesus Christを採用したアルテミエフの意図を『ソラリス』の音楽担当者は、リズム要素において増幅せしめた。われらは、バッハの音をロゴスを付しても引き去っても成立する宗教性格の表現とみなしていたが、そこには効果音楽である以上は、劇の推移に付き添って、「リズム」を確保する使命をも帯びていたのだ。卓見である。奏者は音楽の使命をも記したように思う。ペルトの意図がその通りだったとして、では、当方は今日までペルトの音を果たしてそのようにとらえていたか。否。

英国のセイヤーズ著『ナイン・テイラーズ』に鳴鐘法の説明あり。方法を以て鳴らす。ここにあるのはロシアの鐘。ポリグラムのカタログ冊子で早くから注目していたが、さすがに若い頃には資金がなく、一般(?)演奏録音が優先させられて、あとにまわされた。入手してからはすべてが迅速に動き、ルビンシテインの作曲に移り、ロシア・ピアニズムへと研究対象が変化した。鐘の音はロシア音楽の基礎基本の一部である。

1955年フランク、前奏曲、コラールとフーガロ短調。Prestoは急ぐってことさ、と駆け抜ける若さがある。この人物に晩年はなかった。

こういうことだろう。1987年のエレクトリック・カウンターポイントは、奏者は演奏に徹し、受容者は「我」が抜けるのだ。3つの形態は、受容者自身の音の記憶にも遡行する。例として当方の場合。1、はソ連映画『惑星ソラリス』に配された音楽に相対し、ハリウッド版『ソラリス』の音楽で別途付加された音の工夫に回帰する。2、は1970、80年代の日本のテレビドラマの効果音に類縁をみる。石立鉄男氏主演のもので多く用いられていた。3、はわが国での(他の国では、その国のエンターテイナーがある)木琴実演、例えば、平岡養一氏の音を挙げてみて良いだろう。新規の音の配置が、古い記憶に立ち帰る。そこで、受容者に受容者自身である必要はなくなる。1988年の高橋美智子氏らによる『驚異のコントラバス・マリンバ』が初手であった。加藤氏の音まで幾星霜。良い時代になった。

ピアノ協奏曲第1番ホ短調Op.11より第1&2楽章。2楽章の静穏の値は高い。1953年にウィーンでスワロフスキー指揮で録音されたものでは3楽章まである。こちらは軽快の妙。

バウムガルトナーとホルショフスキーの組み合わせでは、1958年のLPがステレオで復刻されているものあり。本盤は、1955年のモノラル録音。ピアニストは、レパートリーとしていた。奏法が前世紀(前々世紀)のものであるとの認識もあるが、残された私家版のソナタ全曲録音では、独自のフレーズを幾つも用いている。モーツァルト自家薬籠中にありきとの定義で良し。

チャイコフスキーピアノ協奏曲第1番、ナタン・ラフリン指揮、ウクライナ国立交響楽団、1954年。楽器が悪く、録音状態もいまひとつであるが、独奏の音の意図はわかる。パヴェル・セレブリャーコフのムラヴィンスキーとの共演LPの解説に、もともとの曲に俗謡の応用があるとあった。弾んだ音にそのロシアらしさが出ていよう。

ムラヴィンスキーのチャイコフスキー4番交響曲は抜群。注目するのは、リヒテルのモーツァルト20番協奏曲。1950年のコンドラシン指揮チェコ・フィルによるもの。対比奏法はあるにはあるが、声高ではない。つまり曲に奏者が従っていると思う。

ピアノ協奏曲第21番ハ長調K.467。この曲に向かう奏者の音は、「そこ」にあらわれるものは、作者の精神か奏者の精神か、との問いへのひとつの回答となっている。残余は、バーンスタインがウィーンフィルに求めたウィーンの音の流儀であろう。肘は外側へは曲がらぬ。

デムスのドビュッシー解釈の集成。細密な音の粒。それは最初から曲の中に期待されてある。ところで、鈴・鐘の音を持ち出すと、材質がガラスであるのか金属であるのかによっても異なるが、受容者側の同調の過程の深浅によっても異なって来るのである。奏者の同調の過程が透けて見えるところに面白いところがある。また、当方は、生徒の時分に思想史家の林達夫氏の言及にこころをひかれた。音、音楽を思想として把捉すること。デムスは、あるいはそれを成果品として提出しているのかも知れぬ。

半音階的幻想曲とフーガ ニ短調BWV903。デムスのバッハは、ピアノでやっても古楽器の響きがあって、同僚のバドゥラ=スコダも同様。そこで、ウィーンたる音がどこにあるのかは遂に不明であった。バドゥラ=スコダが古楽器でモーツァルトを演奏するのを間近で聴いたことがある。聴き慣れたソナタが変性した。しかし、バッハの音なら本質において変性しないようにも思う。あとはデムスのバッハの脳中変換であるか。古今の差異に決然たる工夫があると思うが、どうと言い当てることはできぬ。もともとウェストミンスターの古楽は秀逸録音が多いので、その豊かな伝統のなかにデムスも沈むのであろう。

ポリグラムとキングインターナショナルのそれぞれ分厚いカタログを熟読し、次に狙う盤を決めた。その頃ウィーン三羽ガラスの録音は、既に数多くあった。32番ソナタは、奏者得意の一曲、最晩年までリサイタルの重要曲目となった。

フランク協会長。本盤発売の2年後には2015年12月の北京大学での前奏曲、コラールとフーガの録音を残している。奏者若年時の見極めは活きていて、祈り、あるいは沈潜の跡をたどった音になっている。機会があれば、是非本盤との比較を。

小冊子中の幾らかの伝記上の事実に就き、教授―学習行為に関しては、奏者がバッハを省略した事実が意味を持とう。いわゆる宗教音楽を排し人間を取り扱う音楽に傾斜した。本盤はモーツァルトとベートーヴェンのソナタ集。それらの帯びる宗教性あるいは典雅な性格に対する奏者の判断は? 面白い謎である。

フランク:前奏曲、コラールとフーガ ロ短調(1965年録音)。約30年後に実演を聴いた。それよりは即物的。残響も柔らかい。

ベートーヴェン12番ソナタ。アレグロにて完結、爽快な音。

ショパンの2番ソナタの構想力。かつてリヒテルが奏者と談笑する写真があったが、リヒテルが奏者の音をどのように把握したかは調べ切っていない。おそらく未解決におわるだろう。

瞑想曲、としてヴィシネグラツキー1918–1919の作品。若き日の、対象化された瞑想、がここにある。どうか。先ず瞑想を深めよ。しかるのちに曲を作るべし。一連の各曲のあとにお口直しとしてラフマニノフのヴォカリーズ1915。しかしこれも瞑想の体。こちらは、発出する声楽曲であるから、発出しつつ内に立ち帰るという基本さえ把握されれば、あとは演奏家の判断となる。面白い企画の一枚となった。

当方の分担はヴィシネグラツキー。1918年の作品。ライナーノーツにはワーグナーとスクリャービンの影響が認められることが記されている。そのことよりも次に併録されているラヴェルとの対比が面白い。

SACDとして音の粒は良。本来の音源が抜群であるので、文句なし。

図形譜面とは相違があって、ユーモラスな概形表現あり。受容者は、自身ではこの表現から音を再現発出することはできまい。しかし、満足するに決まっている。

弦楽四重奏曲第2番作品18。ヴィシネグラツキーは世の実相を追い、それが、四分音によりなされたので、通常の音楽とは別扱いになることが多い。しかし、実相は実相であり、あとは手段の差異であるから、音が演奏されて現前に成立すれば、その音は音楽だろう。本録音は、少々ロマンティックな振る舞いをたどる。そのヴァリエーションもまた一興。

一夜にして、モーツァルト、シューマンのコンチェルトを捌き、さらにシルヴェストロフまで。気力充実を先ず観るべき。

無調は創造とその反対である実相描出とを同時に実現させる。本盤は無調ではない。テムポと強弱と歌詞と歌詞のブレスとで、創造と実相描出とを実現させた。広義の無調?

二様に表記できて、第1曲ヒンデミットは、「ヴィオラとピアノのためのソナタ」と「ヴィオラソナタ」の場合がある。無論前者を採用せねば、本録音の基軸は説明を開始できない。ショスタコーヴィチも同様。ブリテンのラクリメは、ダウランドの転用。馴染んでいる英国人とは異なり、わが国の聴衆は先ず、英国作曲家の個々の作品に先にじかに当たっておくべきだろう。しかるのちにブリテンの着想を知る。ブリテンとリヒテルとは交流があり、両者による演奏録音もある。音による曲想さらには作曲哲学の開示が残されたこととなった。

テムポの統制良好。曲は新奇。歌詞はいかが? 音の粒のひとつとして詞の粒がはいる。

常に演奏諸形態に独自の工夫あり、その事実には慣れた。本欄上記の通り、ヴォルフガング・ザンドナー氏は「音楽と言葉―アルヴォ・ペルトの作品では明らかにそれが核となっている。言葉が聞こえない時でも、音楽にテキストがない時でも、言語の力がその主題となっている」と付言。ゲオルギアーデス『音楽と言語』を参照のこと。既に音楽の発生過程がそうなのであり、それならば、「言語のチカラ」自体が論述の対象たるべき。精神世界の深淵も表層も、叙述即、叙述者自身の精神の露呈をもたらす。そこまで降りて来なくてはならぬ。

1985年ダヴィッド・オイストラフ記念コンサートの録音3曲。ブラームスの「雨の歌」がある。オイストラフはリヒテルとも組んで、かなりの数の演奏会に参加している。オイストラフの弟子であるカガンは、師とはやや異なる演奏スタイルで、流麗たる音を残した。5年後弟子も早逝。当初リヒテルファミリーとしての録音は出回ってはいなかったが、リヒテル没後にかなりの量のCDが作成された。

1.草木抜群。半世紀前のフュージョン→コン・フュージョン運動を想起。

5.「持ち来せよ」の前後に働く賓辞の妙。

ショスタコーヴィチ明瞭。さて、当日は、ブラームス→ショスタコーヴィチ→リストの順だったのか。

奏者のハイドン解釈はモーツァルト解釈の前哨戦としても参考になる。本盤は1986年71歳の頃の録音。タッチは流麗であるが、一方で往年の録音の起伏は抑制されている。この種の安定した推移は、20世紀音楽の夕べ、の延長上にある現代音楽に対する態度にも近接するのでは?

当方は、アイザック・スターンとインドルジヒ・ローハン指揮プラハ交響楽団を最初に。また、オイストラフ、コーガンの両者の演奏を聴き込んだ。録音を聴く限り、おそらく、オイストラフの音は体幹を通しており異質。コーガン、スターンはいわゆる国際派の秀逸録音である。本盤は、令和時代の新録音。国際派に当たろう。そして、弾き振りなので、ソロの突出と楽団との調和部分とはコントロールされている筈で、聴きやすい配分なのではなかろうか。弦の音はひたすら美しい。オイストラフは、調和の方をどのように認識していたのだろうか。実際に指揮者として立っていた時期もあった。もはや何もかも20世紀のかなたの出来事である。

選曲の妙。なお、1991年版の「BLUE BEAT Blue Note Plays The Music Of Lennon And McCartney」では、重複があるが、CAN’T BUY ME LOVE(Stanley Turrentine)、ELEANOR RIGBY(Stanley Jordan)、I WANT TO HOLD YOUR HAND(Grant Green)、YESTERDAY(Lee Morgan)、FROM ME TO YOU(Bobby McFerrin)、HEY JUDE(Stanley Turrentine)、IN MY LIFE(Gil Goldstein)、GET BACK(The Three Sounds)、ELEANOR RIGBY(Lonnie Smith)、HEY JUDE(The Jazz Crusaders)の10曲。いずれ劣らぬ強者揃い。

リワークスの方のノイズ使用に趣がある。ノイズのソフトランディングとハードランディングと。

脱力、との評もあり音に当たる。早手回しに進むところに速度を落とす調整がある。

本盤が届くまでのあいだにinstagramを介しての告知があった。コメンタールの形式で、動画掲載された。波形は2次元にも表示し得て、添付された付録資料に呈示あり。以上の如く、演奏の内訳は開示されている。受容する側は、事 後 に 説明を手にする。ここで灯を消そうか。音が聞こえる。これは聴きたかった音なのだ。

独自性と親和性と。独自を「卓越」「超越」とみる信者もあろう。1.4.といった企画を、主旋律の出るまでの聴衆の意識の推移とともに外部からの視点で再評価すると、独自も親和もアングロサクソンの音と軽く握手している。さて、コルトレーンの演奏史のどこに位置づけられるのか。

記載に従えば、コリン・デイヴィス指揮ロンドン交響楽団とのグリーグ・ピアノ協奏曲(26.07.1979,Live,London)のみが初出録音。

8.17.よし。ヴォカリーズは、ピアノ、チェロ、ヴァイオリンと数限りなく視聴したが、本演奏は、かなり良質。ただし、これは声楽の練習曲なので、一度声楽で聴いたうえで、考えてみて欲しい。

演劇展開。アファナシエフよりもアラウのスタイルに近い。内省と表現とは同時に成立するのか。間隙すなわち沈黙の保持する意味が音に反映するし、音の推進力が間隙を自ずから構築する。

最近五木寛之氏による歎異抄の私訳を読み、かつて和辻哲郎氏が正法眼蔵随聞記の解説を担当したのを想起した。本誌本号は、坂本氏に対するwithの随伴の記録を多く含み、しかもそれらは良質である。文句なし。

K.264。ヴァリエーションの小曲ながら推進力あり。

マリー=テレーズ・フルノー。こんな音源がまだあるからこそ21世紀はまだおわらない。

クレンペラー麾下フランス国立放送管弦楽団のふところは深い。されば、弦の音を聴かせてよ。50年代がピークであったとの評もあるが、ここでは、1960年6月17-19日の録音。作曲者のこしらえた旋律をどこまで歌わせるか。

18曲の選曲、整序にあってCD2の巻頭にベルク「ヴァイオリン協奏曲《ある天使の思い出に》」第1楽章を置いた事実が秀逸。常に先達であり続けた撰者であった。

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