伝えられる数々のエピソードはセルフプロパガンダだった!?“本物の天才”豊臣秀吉を新しい視点で読み解く「秀吉再考」

特別歴史好きではなくても、日本人なら“豊臣秀吉”のことを知らない人はいないだろう。織田信長に仕え、信長亡き後はその遺志を継ぎ天下統一を成し遂げた人物。彼のことを描くとき、二十世紀の終わり頃までは“日本一出世した男”という明るい善玉のイメージが主だったが、近年は残虐性が強調されるようになった。しかし、実のところ秀吉を描くのは非常に難しいと「秀吉再考」の著者・倉山満はいう。著者曰く「本物の天才」である豊臣秀吉の知られざるエピソードから、新しい“豊臣秀吉像”を読み解いてみたい。
●秀吉が天才たる所以はあの有名な歌にも
有名な“ホトトギスの歌”からも、秀吉の天才具合は読み取れる。鳴かないホトトギスを信長は「殺してしまえ」と詠み、家康は「鳴くまで待とう」と詠んだ。信長は決心さえあれば殺してしまえるし、家康も根性さえあれば待つだけでいい。しかし、秀吉の「鳴かせてみよう」は工夫(イノベーション)が必要なのだと著者はいう。真似しようとしても、真似できないのだ。
秀吉の工夫は、“セルフプロモーション”にも表れている。秀吉の伝説として「草履取り」のエピソードなどが有名だが、この話は眉唾もの。ではどこから話が出てきたのかというと、案外彼自身の自慢話が元になっているかも知れないのだ。
秀吉の前半生はじつはよくわかっていない。しかし秀吉は天下を取ってから、大名たちを集めては過去に苦労したエピソードなどを話して聞かせ、能や狂言に仕立てさせたそうだ。その過程で話に尾ひれが付き、「秀吉は凄いぞ」というイメージが出来上がっていく――。あえて苦労話をすることで、人から憧れられるようプロパガンダをした秀吉のプロデュース力は特筆するべき点だろう。
●「本能寺の変」黒幕説
天下人・信長が部下である明智光秀に討たれた「本能寺の変」。じつは本能寺の変の黒幕は秀吉だという説があるそうだ。秀吉が黒幕だと言わる理由は、本能寺の変が起こってから秀吉が光秀を破るまでほんの10日ほどとあまりにも速いから。しかし、それはあり得ないと著者は語る。
陰謀論が成立するかどうか、陰謀が介在する余地があるかどうかは、出来事を再現し、その時代の常識を全部並べてみるとわかります (※注)
鍵は予想外のスピードで京都に戻り、光秀との決戦に挑むという神業を“狙ってできるかどうか”。謀反の知らせを受けた秀吉は信長の死を隠して備中高松で毛利と講和し、京都へ引き返して光秀を討った。これを成立させるには、「毛利との講和を上手くまとめられるか」「いかに京へスピーディに戻れるか」「毛利が約束を破らずに追いかけてこないか」の難関がある。
秀吉が黒幕だと、その前に光秀をそそのかして信長を殺させるという難関が増えることになるのだ。光秀とそのような謀略を共有できるほどの盟友に、いつの間になったのか。そう考えると、“秀吉黒幕説”は破綻する。
●晩年の“キレやすさ”が豊臣政権を終わらせた?
さて、ついに天下統一を成し遂げた秀吉。しかし豊臣政権はあまり長くは続かなかった。1598年に秀吉が死没したあと、わずか2年で徳川に取って代わられたのだ。その理由が、1595年に発生した「秀次事件」にあるのではないかと著者は推測する。
秀次事件とは、秀吉の甥・秀次が謀反の疑いをかけられ切腹、秀次の子女や妻妾らも連座させられた事件だ。
処刑された中には、秀次の側室となる予定だったけど、まだ秀次に会ったこともない最上義光の娘もいたことです。(中略)秀次にまだ一目も会っていないまま秀次事件に巻き込まれ、最上義光らの嘆願も叶わず、処刑されてしまいます。あまりにひどすぎます。最上義光が、のちの「関ヶ原の戦い」で何がなんでも徳川につくのは当たり前です (※注)
他にも、連座されかけたものの家康に助けられて関ヶ原の戦いで東軍についた武将は多数いたらしい。晩年の秀吉には、「俺は信長のように甘くないぞ」と信長を呼び捨てにしたエピソードがあるくらいキレやすくなっていたという。
老いると怒りっぽくなりやすい人は現代にも多いが、秀吉ほどの天才も歳には勝てなかったのか……。
とはいえインテリジェンスを武器に戦国時代を勝ち抜き、天下を統一した秀吉の力量は本物だ。“サル”や“ハゲネズミ”とあだ名された秀吉からは想像できない、知られざる一面を本書で確かめてみてはいかがだろう。
※注)倉山満「秀吉再考」より引用
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掲載: 2025年12月22日 10:00

