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ハンガリーの巨星エルンスト・フォン・ドホナーニによるベートーヴェン、シューベルト、自作自演集

ドホナーニ世界初出ライヴ

ドイツ・ロマン派最後の旗手! エルンスト・フォン・ドホナーニによるベートーヴェン&シューベルトのソナタ及び自作自演集。

指揮者、ピアニスト、教育者、そして作曲家として全方位に音楽活動に献身したエルンスト・フォン・ドホナーニ。(これは彼自身生涯愛用したドイツ語読みで、ハンガリー語だとエルネー・ドホナーニ。)バルトークやシフラの同門であり、指揮者クリストフ・フォン・ドホナーニの祖父であり、フリッチャイ、ショルティ、ゲザ・アンダなど世界的に活躍する音楽家を多く門下生に持つことからも、19、20世紀の音楽界を牽引した巨人であることは間違いありません。ドホナーニはレコーディングにも積極的でしたが、古典・ロマン派の作品の録音が多く、残念ながら自作の録音はそれほど多くありません。作品自体あまり知られていませんが、ドホナーニの作風はドイツ・ロマン派の伝統を受け継いでおり、美しい旋律が溢れています。ベートーヴェンやシューベルトの作品がポピュラー音楽にアレンジされることが多いのと同様、彼の作品も映画音楽などで多く取り上げられ、実は耳にしたことがあるかも知れません。演奏では、楽譜には表しきれないリズムの揺れや微妙な奏法、さらには楽譜にはない小節が即興的に加えられた作品もあり、作曲家の意図が明らかになる興味深いものばかりです。演奏をとっても、現代のヴィルトゥオーゾに全くひけを取らない技巧をもってドイツ・ロマン派の真髄を今に伝えています。(テスタメント)

【収録曲目】
CD1 65.14
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン1770-1827
1-3 ピアノ・ソナタ第16番ト長調作品31-1
フランツ・シューベルト1797-1828
4-7 ピアノ・ソナタ第18番ト長調D.894
エルンスト・フォン・ドホナーニ1877-1960
8 ピアノのための6つの小品作品41 第2番スケルツィーノ
9 組曲形式によるユーモレスク作品17 第1番マーチ
10 ピアノのための6つの小品作品41 第4番カスケード

CD2 41.54
エルンスト・フォン・ドホナーニ1877-1960
1 ハンガリー民謡による変奏曲作品29
2 ピアノのための4つの狂詩曲作品11 第2番嬰へ短調
3 ハンガリーのクリスマス歌曲による牧歌
4 ハンガリア牧歌作品32a 第6番Adagio non troppo
5 ピアノのための3つの小品作品23 第3番カプリッチョイ短調
6 ピアノのための4つの狂詩曲作品11 第3番ハ長調
7-10 交響的瞬間作品36~4つの楽章(*)

【演奏】
エルンスト・フォン・ドホナーニ(ピアノ、*を除く)
(*)エルンスト・フォン・ドホナーニ指揮 BBC交響楽団

【録音】
1959年3月1日、フロリダ大学、学生ラジオ局による録音(CD1)
1956年8月19日、エディンバラ音楽祭でのライヴ録音(CD2 1-5)
1936年2月18日、BBCの放送用スタジオ録音のエアチェック音源(CD2 6)
1936年2月16日、BBCが放送したライヴのエアチェック音源(CD2 7-10)

【日本語ライナーノーツ全文】

ハンガリーの作曲家、そしてピアニストでもあるエルネー・ドホナーニ(自身が使用していたドイツ語風の読み方でエルンスト・フォン・ドホナーニ)はポジュニュ(今日のブラティスラヴァ)という街に生まれた。最初、父親や地域の音楽家から音楽を学び、フランツ・リスト音楽院(ハンガリー王立音楽院)で学ぶためにブダペストへ引っ越した時にはすでに17歳になっていた。幸運にもリストの直弟子でありリスト自身に音楽院で教鞭を執るよう勧められたイシュトヴァン・トマーン(1862.1940)からピアノを学ぶこととなる。ベラ・バルトークやジョルジュ・シフラとは同門である。作曲はブラームスの流れを汲みドイツ的作風のハンス・フォン・ケスラー(1853.1926)に師事した。

卓越したピアノ演奏の才能をもったドホナーニはわずか3年でリスト音楽院の卒業資格を得、若干20歳にして卒業証書を手にする。その後すぐにピアニストとして演奏ツアーを開始した。1897年、同じくリスト直門のオイゲン・ダルベールのレッスンを2回受け、音楽院を卒業した数カ月後にはベルリンでデビューを果たした。ベルリン及びウィーンでのデビューは大成功を収め、翌1898年、クィーンズ・ホールにてハンス・リヒター指揮のもとベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番を演奏し、ロンドン・デビューも果たす。翌シーズンには同作品でアメリカ・デビューも飾った。

1905年、ヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒムに招かれ、ベルリン高等音楽院で教鞭を執ることとなり、1915年まで続けた。この職を辞してすぐに、ブダペストへ戻る。第一次と第二次大戦の間には、ブダペスト・フィルハーモニー管弦楽団と音楽アカデミーの音楽監督となり、実質的にハンガリー楽壇の中心人物となった。

1928年6月15日と18日の二日間に渡りロンドンのクィーンズ・ホールで行われたブダペスト・フィルハーモニー管弦楽団の75周年を記念したコンサートには、作曲家、指揮者そしてソリストとして参加した。初日にはモーツァルトのピアノ協奏曲第17番ト長調K.453を弾き振りしたが、この時は小編成のオーケストラが起用された。(同作品は2日後にコロムビアに録音された。)後半にはブラームスの交響曲第1番が演奏された。2日目には、エミール・テルマニーがドホナーニ作曲のヴァイオリン協奏曲を演奏し、続いてエルガーの《コケイン》序曲とベートーヴェンの交響曲第3番《英雄》が演奏された。1936年2月、ドホナーニはブダペスト・フィルハーモニー管でコンサートを催し、この時にはバルトークがピアノを弾きリストのピアノ協奏曲第1番を演奏した。1週間後、ロンドンに出向きBBCとのいくつかのプロジェクトに着手する。最初に、クィーンズ・ホールにてエルネスト・アンセルメ指揮のBBC交響楽団とベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番を演奏した。その4日後、日曜オーケストラ・コンサートで、ベートーヴェンの《エグモント》序曲とアーノルド・バックスの《ファンドの庭》、そしてブラームスの交響曲第4番を指揮する。この時のプログラムには、ドホナーニ自身の作品で3年前の1933年に完成させた、交響的瞬間(Szimfonikus percek)作品36も含まれていた。5つの楽章のうち4つは放送音源を原始的な家庭用ディスク・カッターで録音したものが残されており、この盤で初めてリリースされることになった。技術的な制約とピッチ上の問題はあるにせよ、ドホナーニのリズミカルな奏法とライヴでの音楽制作のセンスを証明するにはまたとない資料である。

このオーケストラ演奏の2日後には、モーツァルトのピアノ・ソナタ第11番ニ長調K.331、ベートーヴェンのアンダンテ・ファヴォリ、自身の作品である狂詩曲作品11から第3番ハ長調からなる30分ピアノ・リサイタルの放送のためBBCのスタジオに戻った。この放送のうち、狂詩曲が先ほど同様の方法で録音された。この作品はドホナーニの最も有名なピアノ独奏のひとつで、中間部分に現れるテーマは天にも昇るようなロマンティックさで、後に《ドリーム・オブ・オーウェン》や《デインジャラス・ムーンライト》といった映画音楽として有名になった。こうした作品の商業録音のほとんどは78rpmディスク時代に、マーク・ハンブルグ、アイリーン・ジョイス、ヨハンネ・ストクマー、レナード・ペナリオといったアーティストによって制作された。ドホナーニは1920年代から50年代後半にかけて自身の作品をHMVに録音してきたが、この有名な作品の録音は残していない。4つの狂詩曲が録音されたのは、1950年代の半ば、ドホナーニの演奏技巧に衰えが見えだした頃になって初めてアメリカのレミングトン・レーベルへのことであった。このCDで聴ける1936年の演奏は、前週に演奏されたベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番の影響を色濃く受け、「気まぐれなリズム、向こう見ずな指捌き、それでいて、いやそれだからこそ、ハ短調の協奏曲はより良く演奏された時よりもはるかに魅力的で至福の時へと誘ってくれる。レコーディング・スタジオにおけるドホナーニの演奏は、もっと抑制されてお り、放送ライヴでのこの演奏とは全く違う。全体の響き、長いフレーズの流れ、リズムの推進力、押し寄せる高揚感、斬新な劇的効果といったものが優先され、個々の音符の正確性はそれほど重要視されていない。このような演奏技法はリストの弟子達により創り上げられたグランド・スタイルと呼べるものである。

第二次大戦中、ドホナーニはブダペストに暮らしていた。政治的陰謀に巻き込まれ、音楽院の校長に何度も任命されては解雇されるということを繰り返した。1940年代にはナチに賛同したとする資料も多いが、実際のところ1944年にブダペストを離れてから二度とこの地には帰らず、オーストリア、アルゼンチン、メキシコを経て最終的にはアメリカに亡命している。最初の夫人との息子、ハンス(1902-1945、指揮者のクリストフ・フォン・ドホナーニの父親)は、1945年4月に総統に反抗する活動をしたとして、ヒットラーの命によりナチによりザクセンハウゼン強制収容所で処刑された。

1949年から1959年にかけて、ドホナーニはフロリダ州立大学で教鞭を執り、1955年には3番目の妻とともにアメリカの市民権を得た。翌年、第10回エディンバラ音楽祭に招待され、ニュー・エディンバラ四重奏団と自作のピアノ五重奏曲第2番変ホ短調作品26を演奏した。また、ヴァイオリニストのアルフレード・カンポーリとリサイタルを開催し、イアン・ホワイト指揮BBCスコティッシュ交響楽団とともに有名な童謡の主題による変奏曲を演奏、さらには自身のピアノ作品でソロ・リサイタルも開催している。これらはすべて、ドホナーニが79歳の時の活動である。

ドホナーニのピアノ音楽はブラームスとメトネルの中間的なスタイルがとられ、自身による演奏をスコアと比較することは非常に意義深い。印刷された音符こそがドホナーニの出発点といえる。ハンガリーの民謡による10曲からなる短い変奏曲は1917年に書かれた作品で、演奏する際には楽譜に表わすことが難しい自由なリズム感が要求される。4つの狂詩曲は1902-03年に作曲され、第2曲はハンガリーのツィンバロムを模したトレモロを採用しリストのハンガリー狂詩曲を彷彿とさせる。1920年に作曲が開始された牧歌は、1929年11月にブダペストにてドホナーニ自身がHMVに初録音をした作品で、ハンガリーのクリスマス・ソング「天使が天国よりやってくる」に基づいている。この作品32には4つのヴァージョンがあり、末尾のアルファベットで区別される。作品32aがオリジナルの7つの楽章からなるピアノ曲で1923年に完成したものである。作品32bは7つの楽章のうち数曲をオーケストラ版にアレンジしたもので、32cはヴァイオリン版、32dはチェロ版である。7つのピアノ用楽章のうち第6曲はヘ短調のAdagio non troppoで、情熱的なハンガリーの劇を題材にした中間部分を平易な詠唱が包み込むような構造になっている。こうした作品では、ドホナーニの演奏が彼の同胞であり弟子でもあったエルヴィン・ニレジハジ(1903.1987)を思い起こさせる。イ短調のカプリッチョは1912年作曲の3つの小品の第3曲で、他の2曲はそれぞれアリアとワルツ・アンプロンプチュである。中でもvivaceの部分では、エネルギッシュなドライヴ感と超絶技巧を駆使してピアノという楽器を完全にコントロールし、純血なる演奏を聴かせてくれる。

フロリダ州立大学の在籍期間の最後には、ドホナーニはリサイタルを開催し学生ラジオ局に録音用させた。その時、すでに82歳、プログラムには2曲のト長調のソナタが含まれていた。ベートーヴェンの作品31の1とシューベルトの壮大なD.894である。3曲のアンコールはすべてドホナーニ本人の作品だった。最初の曲は、1945年作曲の6つの小曲作品41からスケルツィーノ、2曲目は50年以上前の1907年にベルリンで作曲された組曲形式によるユーモレスク作品17の第1楽章マーチだった。この作品で、ドホナーニはオリジナル・スコアにはない2小節の左手によるオスティナートを冒頭に加えて演奏を始めている。この2小節によってベース・ラインは変わらずより和声的なパッセージに昇格させている。アンコール最後の曲は、1曲目と同じく6つの小品から選ばれ、本人の口から曲名が告げられた。鮮やかで流麗な演奏と、安定して的確なコントロールからは、それが82歳のピアニストから紡ぎだされているとは信じられない。ドホナーニがいかにピアノ演奏を愛し、演奏テクニックを生涯最高水準で保ったかを思い知らされる。

実際、最後のスタジオ・レコーディングは1960年1月のエヴェレスト・レコードへのもので、翌2月の彼の死のほんの1か月前だった。

(c)2014,JonathanSummers
訳:堺則恒

カテゴリ : ニューリリース

掲載: 2015年02月19日 12:30

更新: 2015年02月20日 12:30